9 親友
同じ日の午後、優子は、キャシー・ロレンスとラーチモント中心街にあるパーラーの窓際の席に並んで座っていた。ロレンス一家はエメリー伯母の快気祝を開いたあと、一週間程ボストンで短い休暇を過ごした。キャシーは紐育へ戻るとすぐ、二人がよく行くパーラーへ優子を呼び出したのだった。
ペン・セントラル鉄道駅の周囲に開けたラーチモントの中心街は、それほど広くなく落ち着いている。秋から冬にかけて、特に聖誕祭の季節には店のショーウィンドウが美しく飾り付けられ買い物客で賑わうのだが、夏の間は人出が少ない。パーラーの窓越しに眺める街は、午後の日差しの中で静まり返っていた。
店の中にも優子たちの他に客の姿は無かった。二人はウエイトレスにソーダ水を注文した。
「暫く留守にしていたけれど、あれから何かあった?」キャシーが優子に尋ねた。
「伯母様の快気祝の席ではあまり話す機会がなかったけれど、先日母から届いた手紙でいろいろなことが分かったの。私達兄妹の戸籍が父方へ移されている事、以前から母が私達を帰国させて欲しいと父に要求していた事、父がそれをずっと私達に隠していた事……。かなりショックだったわ」
「お母様に優子を日本へ帰したい意向があったとして、どうして優子は今までそれを知らされなかったの?」
「帰国に関することは父が直接私達に話すことになっていたらしいわ」優子は母の手紙の内容を親友に説明した。
「そうだったの!」
「母親が何を考えていたのか初めて知った娘の気持ちを想像できる?」優子は、運ばれてきたソーダ水をストローで掻き混ぜながら言った。
「母親の愛情を確認した幸せな娘の気持ちなら想像出来るわ」
「うまい言い方ね。勿論それは以前から感じていたわ。でも母が長い間父親と私達の帰国を巡って争っていたことは知らなかった」
「それを知ったときの気持ちは?」
「何故もっと早く話してくれなかったの、話してくれれば随分と時間の無駄が省けたじゃない、という気持ちね」
「無駄が省けた?」
「たとえば先日叔母が紐育へ来た時に、もっと具体的な話が出来たということよ」
「お父様の再婚話が無ければ、全てそのままになっていたのかしら?」
「幾らなんでもこの冬までには分かったと思うわ」
「そうね、紐育でお母様のファッション・ショーがあるものね」
キャシーは優子にボストンで過ごした一週間のことを話した。
「今年はロバートがサマー・キャンプでいなかったし、ずっとホテル泊まりだったし、知っている人も周りにいなかったから退屈だったわ。でも両親は楽しんだようよ。コンサートへ行ったり美術館を訪れたり。勿論私も同行させられたわ。今年は伯母のことがあったから無理だったけれど、来年の夏休みはずっとメインに行っていたいわね。優子も一緒に来られると嬉しいのだけれど」
「九月には母が紐育へ来る。先日伯母様の快気祝の席で話したように、母が来たらマンハッタンにアパートを借りて貰おうと思っているの」優子が言った。
「アパートを借りる位なら家(うち)へ来なさい。この間もそういったでしょう」
「あなたに迷惑を掛けたくないわ」
「なにを言っているの、親友じゃない。家がいやなら伯母様のところはどう?リチャード義兄さんの部屋がそのまま空いているから、伯母は絶対歓迎すると思うわ」
「来年のショーへ向けて母の手伝いもあるし、まずアパートを探してみる。もし適当な場所が見付からなくて、ラーチモントの家にも居られなくなった時はあなたに助けてもらうかもしれない」
「知らないところに住むのは冒険だわ」
「アッパー・ウエストの辺りなら昔住んでいたから平気よ」
「そうか、小さい頃住んでいたのよね、マンハッタンに」
「だから大丈夫よ」
「それで、このことはこの間はっきり伝えなかったけれど、母のショーが終わったら日本へ帰ろうと思っているの」優子が続けた。
「そんな!どうして?」
「日本人ですもの、生まれた国に帰ってみたいわ」優子はそう答えるとプラザ・ホテルで叔母の良子から聞いた最近の東京の様子を話した。「来年オリンピックが開かれるから、東京もどんどん変わっているらしいわ」
キャシーは驚いて黙り込んでしまった。
窓の外は行く車の影も途絶え、あたかも街全体が午睡に入ったようだ。そのとき、一台の黄色いビュイックが道の反対側に止まった。運転席からサングラスを掛けたハイヒールの女性が降り立つ。女性はモス・グリーンのスカーフに真っ赤なドレスを着ている。通りの反対側に美容院が見える。女性はゆっくりと車の前を回り、その美容院の扉を開いた。彼女の姿が店の中に消えると、通りはもとの静けさに戻った。
「どうしても日本へ帰りたいの?」しばらくたってキャシーが優子に尋ねた。「ずっとこっちに居ればいいじゃない。あなたがいなくなると思うと寂しいわ」
「私はもとからいずれ帰ろうと思っていたの。父の再婚話が丁度良い機会を与えてくれたのよ」優子はさっぱりとした表情で答えると、「寂しがらないで。そのうちにきっとあなたを東京へ呼んであげるから」と親友に微笑みかけた。<続く>