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■オリジナル作品:「太陽の飛沫」(目次

「太陽の飛沫」 第11回

5 ロレンス家

 その夜、英二と優子はエルビーラの運転する車で、自宅から二十分程の距離にあるキャシー・ロレンスの家を訪ねた。ロレンス家では、心臓発作で入院していたキャシーの伯母エメリーが無事退院したので、それを祝う内輪のパーティーが開かれることになっていた。

 スカースデール銀行の重役エメリー・フォスター女史は、妹のレイチェル・ロレンス夫人よりも五つ年上で、第二次大戦中欧州戦線で夫を亡くし、その後地元の銀行で働きながら、当時まだ五歳だった一人息子リチャードを育て上げた。リチャードは陸軍士官学校を卒業した後、機械技師として紐育に本社のある重機会社に勤めていたが、今年の冬シカゴにある関連の製鉄会社への出向を命ぜられたので、エメリーはスカースデールの家に一人で暮らしていた。スカースデールは、ラーチモントから車で二十分程北上したところにある。心臓発作を起こしたエメリーは、スカースデールの北、ホワイト・プレーンにあるNYCU付属病院へ入院した。

 ロレンス家ではエメリーが入院すると、以前からサマー・キャンプへ行くことが決めてあった十歳の長男ロバートを除き、ロレンス夫妻と娘キャシーの三人が、例年夏の間過ごすメイン州の別荘行きを取り止めて、エメリーの看病に努めた。とくにレイチェル夫人とキャシーは、エメリーの身の回りの世話をする為に、連日交替でホワイト・プレーンまで通った。優子もキャシーと一緒に時々病院へ見舞いに行ったので、レイチェル夫人が感謝の気持ちを篭めて、優子と兄の英二をパーティーへ招待したのだった。

 パーティーに集まったのは、シカゴから戻ったリチャードと、その婚約者でマンハッタンの新聞社に勤めるリン・エドワード嬢、スカースデール銀行頭取で当主ロレンス氏の友人でもあるスタン・ソロモン夫妻、レイチェル夫人の慈善事業仲間でエメリーとも親しいエルスハルト夫人など、一家のごく親しい親戚や友人達だった。

「病院でヘレンというお婆さんと知り合ったの」食前酒の時間が終わり、一同が食堂のテーブルに就くと、隣の席に座ったエメリーが英二に話しかけた。エメリーは美しい栗色の髪をした落ち着きのある女性で、その髪の色を姪のキャシーが受け継いでいる。
「ヘレンは心臓が悪く、普段の生活に戻ることが出来た私とは違って、退院の見込みが無いのよ。ヘレンはもう長いこと入院しているのに、二人の子供達とは音信不通の儘なの。彼女が言うには、この歳になって初めて、今まで自分がやりたい事を何一つせずに生きてきたことに気付いたんですって。ヘレンは私と同じように戦争で御主人を亡くし、その後ブロンクスにある缶詰工場で働きながら子供達を育てたのよ。私と同じスカースデール監督派教会に所属しているのに、今まで知らなかったわ」エメリーはそういうと一呼吸置いて、「だから私は退院したら、ヘレンの分も併せて、本当にやりたい事だけをしようと心に決めたの。私もこの歳になって、自分がどう生きるかが結局人間一番大切なことだ、と思えるようになったのよ」と言った。
「体力が回復しないうちに無理をすると病気が再発するわ」キャシーがいった。
「分かっているわよ」エメリーは姪に軽く微笑んでから、皆に向かって「それにしてもこんなに長いこと仕事を休んだのは初めてだわ。そういえば、入院中読んだ金融関係の本で気になるものがあったわ。定期預金証書の自由化で、今までの古い金融制度は終りを告げる、ということが書いてあるの」といった。さらにエメリーは、「今年に入ってうちの大口顧客たちが、資金をウォール街の銀行へ動かし始めたことに、スタンリーも気付いていたでしょう?」とスカースデール銀行頭取のスタン・ソロモン氏に訊いた。
「気付いていたよ。その本の指摘は的確だ」ソロモン氏が答えた。「いま、ウォール街には新しい金融商品を求めて資金が大量に流れ込んでいる。この兆候が続けば、これからの米国経済は五十年代の繁栄とは違う道を歩むことは確かだね。あのカルロス・ベルニーニ氏も、最近資金をうちからウオール街へ移した一人だ」
「最近、兄がカルロスのところへ会いに行ったんです」優子が言った。英二は会話にベルニーニ氏の名前が出てきたことに驚いたが、妹に促されて、サウス・ハンプトンでの話や、マリー本人が今でもカルロスと仲の良い友達だと言ったことなどを皆に話した。
「スタンリーによればカルロスは人を食った話が好きだそうだから、私達相手に一芝居打つ事ぐらいは大いに考えられるわね」とエメリーが言った。以前、「ベルニーニ氏が離婚と莫大な慰謝料で苦りきっていた」と優子に伝えたのはエメリーだった。

「マリーとの話し合いはどういう具合だったの?」レイチェル夫人が優子に聞いた。
「私のいうことをまるで受け付けませんでした」
優子はそう答えると、先日のヨットクラブでの顛末を話した。
「マリーの言うことなんか気にする必要はないわ。行き場がなくなったら何時でもこの家へ来ればいいのよ、ねえお母様」キャシーがいった。
「その通りよ」レイチェル夫人が娘に相槌を打った。
「しかし裁判に持ち込まれたら不利だな。戸籍上どうなっているのか知らないが、二人がこれまでずっと父親と一緒に住んでいたのは事実だからね」リチャードが言った。
「マリーは、何故それ程まで連れ子の扱いに拘るのかしら」リン・エドワード嬢が首を傾げた。
「利己心からだよ、たぶん」今まで静かに一同の話を聴いていたロレンス氏が、徐(おもむ)ろに口を開いた。ロレンス家の当主、ジェイムス・ロレンス氏は、カナダ・トロントの出身で、ロレンス一族が経営する製薬会社の米国支配人を勤めている。ロレンス氏は、物静かでいつも姿勢が良い。「何でも自分で支配しないと気が済まぬ人間は、思いのほか我々の周りに多いものだ。近いうちに私の弁護士に相談してみよう。分野は違うが、何か良い助言が得られるかもしれない。ともかく、優子は自分の思ったことを主張したまえ。エメリー義姉さんがさっき言ったように、自分の内なる声に忠実に生きることが人間一番大切な事なんだからね」ロレンス氏はそういうと、優子に向けてワインの杯を捧げた。

 食事が終わると、一同は木立に囲まれた庭のテラスへ出、丸テーブルを囲む籐の椅子に座った。微かな風が、香ばしい夜気をテラスへ運んでくる。隣に座り合せたリン・エドワード嬢が父親のことを訊ねたので、英二は父親がマンハッタンで骨董店を営んでいること、今美術品買出しの為に、南米・墨西哥を旅行していることを話した。
「うちの新聞で去年、墨西哥美術の特集を組んだわ」とリンが言った。
英二が、墨西哥のピラミッドや神殿の写真を見たことを述べると、
「あなたはケツアコアトルの神話を聞いたことがある?」とリンが質問した。
 英二が知らないと答えると、リンは「特集を出したときに勉強したのだけれど」と断って、十六世紀のアステカ帝国滅亡に纏はる挿話を語った。

 ……アステカが滅ぶずっと以前、十世紀の終り、翼を持つ蛇・ケツアコアトルを己の信仰としたトルテカの王が、自らをケツアコアトルと名乗った。王はやがて軍神・ウィツィロポチトリを信仰する別の一族に敗れ、トルテカの都を逐われた。
 それから凡そ六百年後の十六世紀始め、西班牙のフェルナンド・コルテスが、西印度諸島から墨西哥湾へ姿を見せた。当時墨西哥中央高原を支配していたアステカ王国の人々は古くからその地に伝わる神話の数々を受け継いでおり、翼を持つ蛇・ケツアコアトルもその一つだった。伝説に依ると、トルテカ王ケツアコアトルは都を逐われた時、「一の葦の年、余は東方よりこの地に戻るだろう」という予言を残していた。フェルナンド・コルテスが墨西哥湾へその姿を現した一五一九年はアステカ暦で「一の葦の年」に当たっていた。さらに、伝説上のケツアコアトルは、コルテス同様、肌の色が白く髭を生やしていた。以上のことから、時のアステカ王モンテスマは、コルテスをケツアコアトルの再来と信じたのだった。
 ケツアコアトルの再来を信じた王は、数の上では圧倒的に劣るコルテスの一行に降伏した。そしてアステカ王国は脆くも二年後の一五二一年に滅亡する。アステカの首都テノチティトランは湖上に建てられた素晴らしい都市だと伝えられるが、西班牙人の手に依って破壊し尽くされ、その後に西班牙風の建物が建てられた。それが今のメキシコ・シティーだ。……

「インディオは遠い昔、まだ地続きだったベーリング海峡を渡って、亜細亜大陸から移住してきたとも考えられているの。だから日本人とも繋がりがあるに違いないわ。十六世紀の西班牙は、借金に喘ぐ本国の財政を、中南米各国からの金や銀によって賄ったのよ」リンはケツアコアトルの神話を語り終えると、最後にそう付け加えた。
 
 その夜、英二は、父親の書斎で例の写真集からケツアコアトルに関する記述を探した。翼を持つ蛇・ケツアコアトルは、アステカでは生命と豊饒を司る神として崇められ、人に玉蜀黍などの栽培を教えたとされる。アステカは太陽の国であり、太陽が暗黒と戦う為に犠牲が必要とされ、古代からアステカに受け継がれたもう一つの神、軍神・ウィツィロポチトリに、人々は人間の生きた心臓を捧げた。太陽の神ケツアコアトルは、軍神・ウィツィロポチトリとは異なり、人身御供を必要としなかった。アステカ文明の自然・宇宙観に内在した「光と闇」、「生と死」などの二元対立は、この二つの神に象徴されたという。<続く>
「太陽の飛沫」 第11回(2010年07月09日公開) |目次コメント(0)

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