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■オリジナル作品:「僕のH2O ブログ編」(目次

「僕のH2O ブログ編」 第10回

<言葉について>

A: 社会と言葉の関係はとても面白い発想だと思います。言葉の話をもう少し続けていただけますか?
勉: これはごく最近考え始めたことなんですが、たとえばここにひとつの名詞があるとします。例として「勉」としましょう。そうすると、この「勉」という名詞は、これまで述べてきた「金利思想」の世界と「自己と非自己」の世界、それと「アフォーダンス」の世界それぞれで、意味するところが変わってくるんです。
A: それはどういうことですか?
勉:「勉」という名詞は、金利思想の世界では数なんです。一人、二人という単なる人数だったり、どこそこの町の一人の住人だったり、買い物をする一人の消費者だったりする、単なる数なんです。でも自己と非自己の世界へ入ったとたん「勉」という名詞は、自己か他者か、見方か敵か、内か外か、ということを厳しく峻別するための名詞になります。そしてアフォーダンスの世界ではじめて、「勉」という名詞は、一人の人間として認識される、固有の時空間を持ったものになるんです。
A: 同じ「勉」という名詞でも、聞く人や文脈によって意味するところが異なっているということ?
勉: 効率だけを追い求める人にとって「勉」という名詞は単なる数でしかないけれど、常に自分と他者とを峻別する人にとって「勉」は敵か見方かということになっていて、僕を良く知る社会環境の中ではじめて「勉」という名詞は、時空間の広がりを持った、ひとりの人間として認識されるわけです。
A: 同じ「勉」という固有名詞に、三つ別々の意味があるということですね。ここでいうアフォーダンスの世界とは、自分を取り巻く社会環境を指すと考えていいですね。
勉: はいそうです。だからサイトに「僕のH2O」という名前をつけたときに、「H2O」は水のことで人の命に係わる大切なもの、というだけの認識だったけれど、よく考えてみると「H2O」というのは記号ですから、さっきの図式でいうところの「数」に近い。そして「H2O」に「僕の」と付いたことによって、「H2O」は単なる記号的存在から特定された水になった。「僕の」という「内なる水」になったんです。さらに「僕のH2O」という名詞になって、この言葉は社会の中で、固有の時間と空間を獲得する筈なんです。
A: 固有名詞として歴史性を獲得した?
勉: そうですね。そのことと同時に、「僕のH2O」という名詞は、今述べた三つの世界をそれぞれ示していることが面白いと思うんです。「H2O」で金利や効率を示す世界、「僕の」で自己と非自己の世界、「僕のH2O」となって社会における一つのミクロコスモスを示します。今僕は、言葉の持つこういうダイナミズムにとても魅せられているんです。
A: 三つの世界では、時間概念もそれぞれ違ってくるのではありませんか。
勉: その通りです。一定の時間が流れる金利思想の世界、個別の時間を持つ生命の世界、終わりのない時間を持つ自然界、の三つに分かれますね。

<死について>

A: 話は変わりますが、人は社会のために生まれてくるとした場合、人が死ぬことについてはどう考えたらよいのでしょうか?
勉: 難しい問題ですね。人が死ぬことは周りにとってみると悲しいことで、決してみんなのためになっているとはいえないと思います。だから、人が死ぬときはその人が役割を終えたということかな。さっき「人から余人を持って代えがたい、といわれることがその人の最大のモチベーションで、生きてそれを続けることが出来れば、それ自体がその人の最大の楽しみであるはずなんです」といいましたが、「死」というのはその人が「そのこと」をもう続けられなくなることですからね。
A: 今はあまり聞かないけれど、昔は国の為に死ぬという行為がありました。
勉: 何かのために死ぬ、ということですね。
A: 江戸時代の「諫死」や「切腹」もそれに入るかな。
勉: 何かのために死ぬという行為は、人間にしかできない行為であることは確かですね。でもそれが許されるのは、それ以外に選択肢がない場合だと思います。
A: 政治的に利用されて、自分の思ったとおりの結果にならない場合もありますからね。
勉: そのために遺書があるわけですが。

A: 生を否定する自殺についてはどうですか?
勉: 生を否定する自殺が何故いけないかというと、その人の生はその人だけのものではないからです。人は社会のために生まれてくるのですから。自殺は、他人の内にあるその人を勝手に殺してしまうことなんです。
A: 断りも無く他人の中にある自分を殺してしまう。
勉: ある作家さんが友人の死について、「友の死は、自分の一部が死ぬのである。としをとって、友人のほとんどが死ぬと、自分のほとんども死ぬのである」と書いています。とにかく出来る限り生き延びて、「人から余人を持って代えがたいといわれること」を続けるべきだと僕は思います。
A: それでも最後は死を迎えるわけですよね。人は社会のために生まれてくる、という理論を単純に敷衍すると、人は自分のために死んでいく、といいたくなりますがどうでしょう?
勉: まだそれほど突き詰めて考えたわけではありませんが、死は何かの終わりではなく、たぶん生まれきたことのそのままの延長なんだと思います。
A: 生まれてきたことの延長?
勉: サイトに、若くして病気で亡くなった石田郁子さんのことを書いたんです。
A: ああ、あそこね、ちょっと引用してみましょう。「僕が彼女のブログを読むことで、改めて僕の中に郁子さんという命が生まれたのだった。『私たちは、死んだ者たちの記憶の上に、生を積み重ねているんですよ。たぶん人間の命はずっと続いているんです。私たちひとりひとりは死んでしまっても、その人たちのことは誰かの記憶に必ず残りますから』という石田さんの言葉を僕は思い出した。石田さんは『人様のお役に立つことをするというのは、その連綿と続く命を、より豊かなものにして先の人に引き継ぐということなんじゃないかと思うようになりました』とも云った。人は他人の役に立つ為に生まれてきて、己の命が尽きたら次の人にそっとバトンを渡していくのだろう」という所ですね。ちなみに、石田さんは郁子さんのお父様です。
勉: 人が社会のために生まれてくるということは、その人が死んでしまっても、社会が存続する限り、他人の記憶の中にその行為(生産)が生き続けるということなんではないでしょうか。
A: なるほど。でもさきほどの自殺の話じゃないけれど、死んでしまうよりも生きていてくれた方が周りは嬉しい訳で、その人と親しかった者にとって、死とはやはり不合理なことですね。
勉: 生物学でアポトーシスというのがありますよね。何かが死ぬから何かが生まれるということなんですが、人が死ぬのも生物学的な要請であって、いってみれば人が生まれてくるために(他の)人が死ぬという側面があります。死についてはそれがいまのところ僕にとって一番しっくりいく説明ですね。<続く>
「僕のH2O ブログ編」 第10回(2010年06月25日公開) |目次コメント(0)

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