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■オリジナル作品:「蔦の館」(目次

「蔦の館」 第10回

 慶応三年の神戸港開港以来、外国人が住宅を建設し始めたことでそう呼ばれるようになった北野異人館街は、ホテルから歩いてそれほど遠くないところにあった。
 中央の異人館通りから折れて狭い坂道を登ると、最初の洋館が見えてきた。建物の受付で入場料を払い、南に開けたテラスに出ると、午後の日差しの中、神戸の港が一望の下にあった。館内を一巡したあと孝二郎は受付でナイルの写真を出し、数日前この女性を見掛けなかったかと尋ねた。受付の女性は暫く写真を見ていたが、素っ気無く「さあ、思い出しませんね」と答えた。 
 時刻はまだ午後四時を過ぎたところだった。二人はしばらく洋館を巡って聞き込みを続けることにした。天然石スレートを魚の鱗状に並べた外壁を持つ館、風見鶏のついた尖塔を持つ煉瓦外壁の邸宅、左右に形の異なる張り出し窓のある萌黄色の外壁の館など、それぞれ特徴のある洋館を回るうちに日が傾いてきた。二人は足を棒にして歩き回ったけれどどの館でもナイルを見かけたという情報は得られなかった。

 やがて、レストランが店を開き始めた。二人は開店したレストランを一軒ずつ回り、ナイルの顔写真に見覚えがあるかどうかを従業員に尋ねた。するととうとう五つ目の、洋館を改装した古めかしい造りの伊太利レストランで、ナイルらしい女性を見かけたという返事に辿りついた。当日給仕を担当した女性従業員に写真を見せると、
「その女性は連れの男性とご一緒でした」と証言してくれたのだ。
「店へ入ってきたとき、二人はどのような感じでしたか?」孝二郎は従業員に訊ねた。
「男性が女性の腕を掴んでいて、何やら言い争っているようでした」
レスリーが縋るような表情で孝二郎を見た。孝二郎も次第に興奮してきた。
「その男の顔を覚えていますか?」孝二郎が従業員に再び尋ねた。
「野球帽を被り、ジャンパーの襟を立てていたので顔はよく見えませんでした。店に入ってからも一番奥の席にこちらに背を向けて座り、食事中も帽子を被ったままずっと下をお向きでしたので、変ったお客様だなと思いましたが、忙しい時刻だったので特に気に留めることはありませんでした」
「男は日本人でしたか?」
「日本人のようにお見受けしましたが、はっきりとは判りかねます」
「それ以外二人について覚えていることを話して下さい」
「お食事の注文などは専らその女性が対応され、お勘定も女性の方が現金で支払われました。男女のお客様の場合、そういうことは普通男性がなさるので、女性が外国の方だったことや、店に入っていらしたときに言い争っていたことと併せて、記憶に残っていたのです」
孝二郎とレスリーは、ナイル達が座ったと同じテーブルに席を取って貰うことにした。開いたばかりなので、まだ店内に客の姿は少なかった。
「言い争っていたのは初めのうちだけすか?」席に着いてからも、孝二郎はその女性従業員に質問を続けた。
「はい、お席に着かれてからはそういうことはなかったように思います」
「二人は何を注文しましたか?」
「手打ちパスタ料理を二種類ご注文されました」
「飲み物も注文しましたか?」
「はい、女性のお客様がパスタに合った葡萄酒を、とおっしゃったのでこちらで選ばせて戴きました。そうしたら、勿論女性のお客様の方ですが、とても美味しいと喜んで居られました」
孝二郎たちはナイルが注文したものと同じ料理とワインを頼み、さらにいろいろと質問をしたが、残念ながら従業員はそれ以上のことは覚えていなかった。

 ナイル達が座ったと同じテーブルでワインを前に、「どうも変ですね」と孝二郎はため息混じりに呟いた。「女を連れ去った男が、当の女を連れて異人館街の目立つレストランで食事をし、しかもわざとらしく言い争っているところを店員に目撃させる。女性の方は、誘拐されていることを忘れてしまったかのようにご馳走を平らげ、ワインまで飲んで、おまけに給仕に美味しかったと感想まで喋っている。もし本当に誘拐されているならば、ホテルにマッチ箱を残したように、レストランの従業員に何らかの手がかりを示す筈ですよ」
「でも、言い争いをわざと店員に目撃させたとは言い切れないし、ワインを褒めたのも、店員に不信感を与えないようにしたのかもしれません。なにか、手がかりを与えることが出来ない事情があったのかもしれません」レスリーはひたすら一人娘の行方を案じている。孝二郎は二人の目撃者に辿り着いたこと、ナイルが少なくともその時点まで無事であったこと、元気そうだったことに安堵しつつ、話全体が出来すぎていることに苛立っていた。俄か探偵はワイングラスを口に運び、レストランの窓から夕暮れ迫る異人館の街並を鬱然とした心持で眺めた。<続く>
「蔦の館」 第10回(2010年06月19日公開) |目次コメント(0)

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