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■オリジナル作品:「太陽の飛沫」(目次

「太陽の飛沫」 第10回

4 ヨットクラブ
 
 壁全体が蔦に覆はれた古風なラーチモント・ヨットクラブのクラブハウスに入ると、がっしりとした石壁や太い梁の組み合わさった高い天井が目に入った。その日英二は、マリー・レンヌから呼び出されて、妹と一緒に此処へやってきたのだった。英二がマリーと会うのは二度目だった。妹の優子にとっては初めてのことである。そういえば、英二が初めてマリーと会ったのもこのクラブだった。そのときは父峻介と一緒だったけれど、今回は妹と二人きりだ。ロビーの中央には、十六世紀英国海軍の、艤装の細部に至るまで精巧に造られた、船尾楼の高い三檣帆船の模型が置いてあった。仄暗いランプの光に目が慣れると、壁に古い海図や徽章、碇や舵輪などヨットに纏わる品々が飾られているのがわかる。「この倶楽部は一八九〇年に創設された」と壁に嵌め込まれた由緒書に在る。英二と優子は、中央の階段を上がりマリーの待つ食堂へ向かった。

 食堂に入る。マリーは、ヨットハーバーが見渡せる窓際のテーブルで二人を待っていた。白いワンピースに黄色いカーディガンを羽織っている。客は三人の他に誰も居ない。食堂の暖炉には、真夏にもかかわらず赤々と薪が焚かれていた。
 英二が妹をマリーに紹介すると、マリーは優子をちらりと見て、
「峻介ったらリオから手紙を寄越して、紐育からブラジルまで航海で何日位かかるだろうなんて馬鹿げたことを尋ねてきたの。どういう積もりなのかしら」といった。
「リオのカーニバルを見に行こうというのでしょう」英二は椅子に座りながら答えた。優子はマリーの正面の椅子に座った。
「まあ、貴方にも同じことを尋ねてきたの?」
「先日父から届いた葉書にリオのカーニバルのことが書いてありましたから。でも僕らは行きません」
「貴方達の好きにはさせないわ」マリーはそう言うと、給仕を呼んで紅茶とサンドヰッチを人数分注文した。

 給仕が退くのを待って、英二はマリーの方に向き直り、予め復習しておいた台詞を口にした。
「あなたは何でも手にしている。豪華な船や邸宅、宝石や車、男の友達も大勢居るに違いない。そんな生活に倦きたあなたはオークション会場で出合った一人の東洋人に興味を持った。美術や骨董品に造詣の深いその男、即ち私の父は、今までのあなたの生活にないものを持っていた。あなたは退屈しのぎにその男と結婚しても良いと思うようになった。でもそれは長続きしない。やがてあなたは父を放り出す、前のご主人のように。そうじゃありませんか?」
「世の中退屈なことばかりというのはその通りだわ」マリーが答えた。「去年の十月、あの若い大統領がキューバに戦争でも仕掛けていれば別だったでしょうが。でも、残念ながら貴方の勝手な推測の内で当たっているのはそれだけよ。私が前の夫と別れたのは、彼に他の女が出来たせいよ。彼の方から別れて欲しいと言ってきたので、同意してそれ相応の慰謝料を受取った。私が彼を放り出したなんてお門違いも甚だしいわ。カルロスとは今でも仲の良いお友達よ。
 それに、今度のことは峻介の方から言い出した事なのよ。私は今でも形式に拘る必要なんて無いと思っているわ。それでも彼は結婚したいと言い張った。だから私はその熱意に絆されて同意したのだわ。私が峻介と結婚するのは単純な理由よ、彼を愛しているの」

「母は来年二月あなた達がリオのカーニバルを楽しんでいる頃、紐育で日本人として初めてのファッション・ショーを開く予定です」優子が口を開いた。「私達は秋からマンハッタンへ移り、母の仕事を手伝おうと考えています。そしてそれが終わったら、母と一緒に日本へ帰る積もりです」
「そんなことはさせないわ。甘えるのも好い加減になさい」マリーが眉を吊り上げて言った。「私達が結婚したら、今貴方達が住んでいるあの馬鹿でかい御屋敷は処分するからその積もりでいて頂戴。不動産屋の話ではあんなお化け屋敷でも相当な値段が付くらしいわ。そうしたら英二は何処かの寄宿舎に入れ、貴女は私達と私の家で暮らすことになるわ」
「九月に入ったら、私達が日本へ帰る為の相談に母が紐育へ来ることになっています」優子は怯まずに言った。「あなたに別の意見があるのなら、母はあなたとも話す用意があるでしょう」
「お国から母親が来て何を言おうと勝手だけれど、その前にこの国の法律をよく勉強して貰いたいものね」マリーが声を荒らげた。「私達に子供の扶養権がある限り勝手なことはできないのよ。貴女は好むと好まざるとに関わらず私達と一緒に住むことになる。そしてこの国できちんと教育を受けるのよ。貴女がこれまで、何処でどんな教育を受けて来たのか知らないけれど、呆れて物が言えないわ。この国でまともな教育を受ければ、二度と今のような生意気な口は利かなくなるでしょう」

 紅茶とサンドヰッチが運ばれてくると、さすがに言い過ぎたと思ったのか、マリーは窓から外に目を遣り、
「良い船でしょう、新婚旅行にはあれで地中海を廻る予定なのよ。いずれ貴方達にも好きなだけ乗る機会があるでしょう」といった。
 桟橋の中ほどに、前舷に青い文字で“MARIA”と書かれた白く大きなクルーザーが碇泊している。今日の午後にでも船は何処かへ出掛けるところのようだ。クルー達が忙しそうに食料などを積み込んでいる。
「そうだわ、今日貴方達に来て貰ったのはそんな話をする為じゃなかった」マリーはそういうと、ハンドバッグから人名リストを取り出してテーブルの上に置いた。「峻介が戻る今月末に、家で婚約披露パーティーを開きたいの。今週中に招待状を配ってしまいたいのだけれど、貴方達なら少しは日本人のお仲間を知っているでしょう。峻介のお店の顧客リストから作ったのだけれど、これで漏れが無いか確かめて頂戴」
 英二はリストを手に取った。そこには凡そ十五人ばかり、英二の知らない日本人の名前が並んでいた。

「その前にさっきの言葉を撤回して下さい」優子が頑なに言った。
「私は何も撤回する積もりは無いわ」マリーは優子を睨んだまま答えた。
「あなたが撤回するまで何も協力しません。あなたが父を愛しているなんて嘘よ」
「この話しはいつまで続けても平行線を辿るだけだわ。貴女にそれ以上私を誹謗する資格はないのよ。黙らないのなら即刻此処から貴女をつまみ出させます」マリーが強い口調で言った。
「私からもこれ以上あなたに話すことは無いわ」英二が止める間も無く、優子はそう言い捨てると席を立った。座っていた椅子が大きな音をたてて後ろに倒れた。優子は食堂の戸口へ向かった。英二も立ち上がって優子の後を追った。
「勝手な真似は絶対にさせないから覚えていらっしゃい」マリーの叫び声が背後から響いた。ミルクと砂糖壷の盆を持ったまま立ち竦む給仕の驚いたような表情が、部屋を出る英二の目の隅に残った。<続く>
「太陽の飛沫」 第10回(2010年06月11日公開) |目次コメント(0)

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