<自由意志について>
A: ここまで話してきて、根本的な質問なんですが、勉さんは人間の自由意志や権利、義務などについてどう考えておられるのですか?
勉: 自由意志というものは、勝手になんでもしていて良いということではないと思います。そうではなくて、何をしたら一番社会の役に立つかということを自分で選ぶ権利だと僕は思います。
A: 逆にいえば社会に役立つことしかしてはいけない?
勉: そうではないんです。たとえば金儲けに関していえば、百億でも二百億でも儲けたい人は儲ければいいんです。でも儲けたらそれ相応分を何らかの形で社会へ返すのが前提ですよ、ということなんです。
A: 人生の大きな波作用として、ですね。
勉: そうです。
A: 社会に返すといえば国に相続税という制度がありますね。これでは駄目だと?
勉: サイトにも書きましたが、相続税というのは人が死んだらその人の財産(の一部)を国が取り上げて勝手に使おうということですよね。僕は自分で儲けたお金は自分のやり方で社会に返した方がいいと思っています。
A: 自分で選ぶということですね、国に任せるのではなく。自由意志というのは、そこまで責任を持つということでもある訳ですね。それでは、金持ち連中が贅沢をすることについてはどうですか?
勉: 僕は人に迷惑さえかけなければどんなに贅沢をしてもいいと思います。ただし、贅沢をして、最高の気分でこれまで以上に社会貢献して貰えるのならば、という話です。
A: イギリス人のいうNobility Oblegesの考え方に近いかな。
勉: それはどういう考え方ですか?
A: 「高い身分に伴う徳義上の義務」とでもいいましょうか、貴族は率先して国のために戦うべしという考え方です。
勉: 僕のはそれとちょっと違っていて、極端にいうと、仕事じゃなくて遊ぶために生きている、と考える人がいても一向に構わないんです。徹底的に遊ぶ人がまわりにいたら、見ているだけでこっちも楽しくなってくるでしょ。だからその人はその人なりのやり方で人の為になっているんですよ。
A: なるほど。概念がそこまで広いんだ。
勉: 僕のは波動理論だから音楽と同じで、「ずれ」や「ゆらぎ」が起こった方がより豊かな音色が奏でられるということなんです。
A: つまり、人々の自由意志を尊重することで、社会がより活性化するということですね。
勉: 遊び人や贅沢者が社会の「ずれ」や「ゆらぎ」なんです。
A: さっき相続税の話をしましたが、法律全般についてはどうお考えですか?
勉: 税金や法律の縛りは出来るだけ少ないほうがいいと思います。政府は必要最小限のことをすればいいんで、その方がみんなが自分で考えるようになるし、税金で取り立ててなにかするよりも、個人の好みで社会貢献を考えてもらった方が、いろいろなことが成されて楽しいと思いますよ。
A: でも、それでは偏った社会になりませんか?
勉: 重要なのは「言葉」なんだと思います。社会や共同体とは、「同じ言葉を話す人たちの集まり」のことですから、言葉に偏りがあると確かに社会自体も偏るでしょうね。だからといって、偏りを解消するために「言葉にないこと」を強制しても、みんなの理解を得られない限り長続きしないと思います。
A: 「言葉の偏り」というのは面白い視点ですね。
勉: 僕が「まだ名前のついていないこと」をしてみたいと思ったのも、無意識にその辺のことを考えていたのだろうと思うんです。
A: そうしたら「僕のH2O」という新しい名前ができた。
勉: 新らしい言葉が生まれた訳です。
A: それによって社会に新たな軸ができた。
勉: そんな大げさなものじゃないけれど、新しいことではあると思います。とにかく社会は多様性があった方が面白いですよね。その多様性を保証するのが自由意志の尊重であり、新しい言葉の獲得だと僕は思います。
A: 確かに新しいことに挑戦してみなければ「僕のH2O」サイトのようなものは生まれませんでしたね。
勉: 人が社会に貢献する分野、方法、時期などは、各人が自分の能力やキャパシティーに応じて自分の意思で決めれば良いのです。だから「僕のH2O」サイトの活動は、他人に強要するようなものにはしたくありません。
A: 一方で、サイトの運営などは、放任しすぎると統制が取れなくなりませんか?
勉: 僕は人に箍をはめることは極力したくないんです。この間地震で知り合った洋子の叔父さん(洋介さん)は僕の師匠みたいな人なんですけれど、決して僕にああしろ、こうしろとは言わないんです。僕がサイトでこんなことをやっているというと、自分はこう思うということは言ってくれますが、それ以上は言わないんです。洋子のことやお金のことなどかなり具体的な質問をしてもそうなんです。
A: 自分はこう思うとだけ?
勉: 洋介さんは機織のお弟子さんたちにも、基本的な手ほどきはするけれど、あとはまったく自由にさせているんで、お弟子さんの方が戸惑っているくらいなんです。なぜそうなんですかって聞いたら「人はどんどん変わっていくものだからね」とだけいって笑っているんですよ。
A: 理想的な師匠なのかもしれませんね。
勉: 武道でも「守・破・離」というのがあって、型なんかはじめは師のいう通りにやらせるけれど、そのうちにそれを破るようになって、最後には師から離れて型を自分のものにしていくのが道筋だというようなことをいいますよね。
A: 私も「離」という言葉は、独り立ちした個人の姿を彷彿とさせて好きだなあ。それに、人はどんどん変わっていくというは実感があります。
勉: 子供の教育はとても大事ですけれど、ある程度したら独立させて、あとは本人の意思に任せるというのが理想的だと思います。ただそのときに、社会の常識として、僕のいう生産と消費論、すなわち人は他人の為に生まれるんだ、という前提が了解されていなければなりません。それがないと、豊かな社会は生まれませんから。
A: その了解さえあればあとは自由放任でいいということですね。
勉; そうなんです。行動経済学では、人間それ自体が欲望の産物だなんていうけれど、欲望を満足させるドーパミンは、人から褒められた時や大切な人だと思われたときにこそ、より多く放出されるのではないでしょうか。人から余人を持って代えがたい、といわれることがその人の最大のモチベーションだ、なんていいますよね。生きてそれを続けることが出来れば、それ自体がその人の最大の楽しみであるはずなんです。
A: ところで、勉さんは決定論についてはどうお考えですか?
勉: 決定論?
A: 人の性格や行動は何によって決まるのかという生物学の議論の中で、遺伝子が決める、と考えるのが決定論、環境が決める、というのが行動主義です。勉さんの「人は他人の為に生まれてくる」というテーゼを、私なりに敢えて拡大解釈すると、「人の為に生まれてくる」という、生まれてくるときから決まっている事があるということで、ある種の決定論のようにも思えますが?
勉: 僕は人の性格や行動は遺伝子と環境の両方で決まると思いますよ。そもそも、その議論は、生産と消費論とは違う次元のことだと思います。でも無理に引き付けていえば、さっき「社会や共同体は同じ言葉を話す人たちの集まり」といいましたが、すでに社会に存在する言葉が、個人にとっての遺伝子のようなもので、社会と個人との関わりが、個人にとっての環境のようなものだといえるのではないでしょうか。
A: 個体における遺伝子と環境の議論を、ひとつ次元を繰り上げるというか、遺伝子を「言葉」に、環境を「社会と個人との関わり」に当て嵌めて考える訳ですね。
勉: 人の性格や行動が遺伝子と環境の両方で決まるように、社会の性格や行動は、すでにその社会に存在する言葉と、新しく生まれた個人と社会との関わり、その両方によって決まるということだと思います。だから、ある遺伝子を持って生まれた人が環境の違いによって性格や行動の幅を持つように、個人が「まだ名前のついていないこと」を始めることは、社会の多様化のためにも重要なんだと思います。
A: 「まだ名前のついていないこと」を始めることが社会の多様化の本質なんですね。
勉: 日本語には、これまの歴史でいろいろな言葉がありますよね、漢字、ひらがな、片仮名から始まって、敬語の問題、男言葉と女言葉、旧かなと新かな、旧字体と新字体、縦書きと横書きなどですが、これまでの日本社会はそういったいろいろの言葉を生み出すことで、多様性を保ってきたんだと思います。これからも多様性を保つためには、僕たちが日本語をどう新しくしていくか、伝統的な日本語にどう新たな息吹を吹き込むかが重要なんだと思います。<続く>