この家の良さは、都心からこそ少し離れているけれど、小川や公園に面した場所にあるので、春の桜、夏百日紅、秋の銀杏、冬空に枝を広げる欅、といった武蔵野の四季を楽しむことが出来ることだ。小川は、水量こそ昔に比べて少なくなったけれど、散歩する孝二郎の気持ちをいつも豊かにしてくれる。
その夜、玄関を入って明かりをつけると、孝二郎は二階へ上がって手早く旅行の準備を済ませた。それからおもむろにお気に入りのジャクジー・バスに湯を入れた。翌朝の新幹線は早い。そのために今夜事務所へ戻るのでシャンパンを開ける訳にはいかないが、お気に入りのバスに浸かって、レスリーが事務所に現われてからの出来事をじっくりと考えてみようと思ったのである。湯が溜まる間、孝二郎は、週一度来てくれる家政婦が整理してダイニング・テーブルの上に置いた郵便物に目を通した。特に急ぎの郵便物はないようだ。
湯が溜まると、明かりを消してガラス戸を開け放つ。冬の冷たい空気が部屋に流れ込んでくるのを感じながら、孝二郎は衣服を脱ぎ、ゆっくりとバスタブに身を涵した。澹い月の光が木立をぼんやりと照らしている。不思議な巡り会わせで与えられた役回りに孝二郎が平常心を保っていたと言ったら嘘になろう。興奮気味の頭を冷やすためにジャグジーのスイッチは入れず、半身浴の姿勢のままこの俄か探偵は右手の本棚をぼんやりと眺め遣った。
―――この事件の最大の謎は、行方不明になった当日、充分時間があったように思われるのに、ナイルが直接礼子に連絡を取らなかったことだろう。いくら礼子がオフィスの席を外していたといっても、少し待てば戻ってくるのだから、わざわざ友人に頼むようなことではない。川本文也は何かを隠しているのではないだろうか。しかし何を?一週間ほど前にナイルが受け取った手紙には何が書いてあったのだろう?その内容と今回の事件とはどのような関係があるのだろうか?また、神戸から出されたと思しい手紙の文面も謎が多い。孝二郎は頭の中で文面を反芻した。
「礼子へ、
私は今、『蔦の館』のことで神戸へ来ています。東京へ帰るのはまだ先になりそうだけれど元気だから心配しないで下さい。経緯はいずれ話します。くれぐれも警察へは連絡しないで下さい。 ナイルより」
警察へ連絡しないよう親友に求めた裏には、以前から何かあったときの連絡先となっている両親のところへ礼子が連絡することを促す意図があったのかも知れない。この文言にひっかかりを覚えたのはそのことだ。とすると、礼子はナイルの望む通りの行動を取ったことになる。親が慌てて日本へ来ることも計算済みだったのだろう。むしろ親を日本へ呼び寄せることが目的なのか。そうであれば母親が来日したにも拘らずなぜナイルは未だ姿を見せないのか。やはり彼女は何か事件に巻き込まれたのだろうか。「蔦の館のことで」とあるが、本当に一度しか行ったことのないホストクラブと関係があるのだろうか。何か別の意味があるのではないか?ツタノヤカタ、ツタノヤカタ、ツタノヤカタ……、孝二郎は幾度かその言葉を口にしてみた。丁寧な封筒の宛名書きの文字と、乱れた手紙の文字。宛名は充分時間のある時に書かれ、ノートの切れ端に書かれた手紙のほうは慌てて書かれたことを示唆しているが、あまりに謎めいていてかえって不審だ。封筒の宛名書きの筆跡はたしかに部屋に残されたノートとよく似ている。神戸のホテルで目撃された男女のうちの女性がナイルであれば、あの手紙もナイルのものと考えてよいだろう。それにしても宛名書きと本文の筆跡を違えるなどいかにもあからさまだ。……いづれにしても今の段階では情報が少なすぎる。「神戸に行けば何か新しい手掛かりが得られるだろう」孝二郎は一旦全身を湯に涵し、そのあと大きく伸びをして頭を軽く左右に振った。
のぼせてしまう前にバスから上がる。服を着て戸締りをする。玄関を出て扉に鍵をかけると、孝二郎は都内の事務所へ戻るべく、玄関脇の駐車スペースに留めた車の運転席に滑り込んだ。愛車はBMW325iのマニュアル・シフトである。色は落ち着いたシルバー、アメリカ仕様の左ハンドル車で、孝二郎が帰国する時にカリフォルニアから並行輸入したものだ。孝二郎はこの車の特にサード・シフトの加速感が気に入っていた。エンジンをかけると、孝二郎はゆっくりと愛車を発進させた。<続く>