青空を劈いてジェット機が一機上昇してゆく。英二は目を開いてジェット機の姿を追った。機は白い飛行機雲を残して次第に小さくなり、やがて視界から消えていった。あの頃から既に五年経った。自分は今、父親の再婚を前にどうすべきかを悩んでいる。もはやあの夏祭りの夜や春の午後の日々に戻ることは不可能だが、日本へ帰ればいろいろなことが解決するのだろうか?答えが見つからぬまま、英二は目を閉じて太陽に身を任せた。
「こんなところに居たのね。随分と探したわ」
目を開けると、妹の優子が英二の顔を上から覗き込んでいた。優子は白いシャツにベージュ色の半ズボン姿で、額に汗を光らせている。
「よく此処に居るのが分かったな」英二は上半身を起こし、敷いていたバスタオルを半分妹に譲った。
「エルビーラの勘が当ったわ、ニューロッシェルの市営プールだろうって」優子はそう言って英二の隣りに腰を下ろした。
「体を休めているんだ。さっきまでYMCAでさんざん泳がされたんだぜ、近々試合があるからって」
「試合に出たくないってコーチに云えば良いじゃない」
「そうもいかねえよ」
「では、大人しく練習に励むのね」
「疲れたっていっているだけさ」
「お母様から手紙が来たのよ」優子はそう言うと、半ズボンのポケットから封筒を取り出して中の便箋を英二に見せた。
「 優子へ
手紙、受け取りました。優ちゃんの希望を実現する為には解決しなければならない事が沢山あります。九月にそちらへ行った時によく話し合いましょう。
これは英ちゃんにも言っていない事でここに初めて書きますが、母は随分と以前から峻介さんにあなた達を帰して欲しい、と頼んできました。あなた達に直接言えなかったのは、日本への帰国に関しては峻介さんから子供達に話す、と約束したからです。良子もこのことは知っています。
そもそも六年前、峻介さんがあなた達を連れて渡米したいと言い出した時、暫くの間なら、といい約束で母は峻介さんに同意しました。あなた達にとって小さい時に異国で暮らすことは良い経験になると思ったからです。
一年が過ぎた頃から、母は度々峻介さんに、子供達を帰して欲しいと頼んできました。峻介さんは初め反対しましたが、そのうちに、その話は子供達が事情を理解出来る年齢になるまで待ってくれ、という理由で断るようになりました。帰国の件は自分があなた達に話すと私に約束したのもその頃です。その後母は峻介さんとの約束を守りました。途中どれ程あなた達に打ち明けてしまおうと思ったか知れません。しかし、渡米手続の為にあなた達の戸籍を峻介さんのところへ移してしまった以上、約束を破ったことであなた達の帰国自体を拒絶されてしまっては元も子もないと思い直し、我慢を重ねて来ました。
去年、良子と巴里からの帰り紐育へ寄ったときも峻介さんとその話をしました。その時はさすがに年齢のことは持ち出しませんでしたが、時期についてもう少し考えさせて欲しい、という返事でした。しかし今回、マリーとかいう女性と再婚を決めたあとも、峻介さんはあなた達に帰国の気持ちを打診した様子もないから、もともとあなた達を帰す積もりなど無かったということでしょう。
兎も角、今度の峻介さんの再婚話で、母はこれから何でもあなた達と直接話そうと心に決めました。優ちゃんの手紙にある通り、峻介さんはこのままあなた達をずっと手放さない積りなのかもしれません。
母のことは心配なき様、峻介さんが米国女性と再婚すると聞いても何の感慨も沸きません。良子には電話で話したとき、峻介さんらしいわね、と言いましたが正直なところ感想と云えばそれだけです。今はあなた達のことと来年のショーのことで頭が一杯です。日本のオートクチュールは巴里や紐育に比べてまだまだ遅れているのよ。
優ちゃんの気持ちが母に勇気を与えて呉れました。有り難う。英ちゃんにも別に手紙を書く積りです。良子が帰ってきたらまた良く相談しておきます。九月にそちらへ行くまで二人で力を合わせて頑張ってね。健康に留意して。 母より、」
母親の手紙を読んだ英二は、
「これでわかったよ、母さんの返事がいつも曖昧だった訳が」と云った。
これまで英二は、直子と会うたびに何故子供達を手放す事に同意したのかという事について聞き質すのだが、直子はいつも笑って「あなたたちの為になると思ったからよ」と受け流すばかりだったのだ。
「私達に直接話して呉れれば良かったのに」
「母さんだけを責める訳にはいかない」
「そうね、それにしてもお父様の遣り方は最低だわ」
「親爺は俺達が飯倉家の一員に戻っちまう事がいやなんだろうな」
「私達のことなんて何も考えていないのよ。リオへ行こうだなんてよく平気で書いて来るわ」
「まったくだな、まだ俺達が何も知らないと思っているんだろう。そういえば良子叔母さんも奥歯にものが挟まったような話し方だったな」
「事情を知っていながら話す訳に行かなかったんですものね」
「もしかすると親爺は我々が事情を知ることなど承知の上なのかもしれないな」
「そうかも知れないわね。きっとそれでも良いと開き直っているのよ」優子は手を額にかざし「ところで、マンハッタンにアパートを借りる件は、エルビーラも力を貸して呉れるそうよ」と云った。
優子はその日の朝、自室で手紙を読み終えると家政婦のエルビーラを呼び、峻介がマリー・レンヌと再婚することを伝へ、マンハッタンにアパートを借りる自分の計画を打ち明けた。第二次大戦後米国へ渡った独逸移民のエルビーラは、暫く沈黙した後、訛りの強い英語で「不動産屋との交渉を手伝いますよ」と言ってくれたのだった。
暑さがいよいよ耐えられなくなった時、英二は立ち上がり、灼けるようなコンクリートの上をプールの淵まで歩いた。一段高い縁に立つと、英二はプールを見渡した。監視台に座ったパナマ帽の男が相変わらず物憂げに辺りを見廻している。いつの間にか子供達の姿が消え、青いプールに人影は無かった。見上げると、夥しい太陽の光が英二の瞳を射た。深く息を吸ひ込んで頭からプールへ飛び込むと、英二の身体を太陽の飛沫が包んだ。<続く>