<お金の価値>
A: 経済学で前提としている通貨では交換価値が決まらないということですね。
勉: さっき神経経済学の話が出ましたが、その大学教授とのやり取りでも、経済学は貨幣価値を前提にしている、ということ自体が問題になったんです。
A: どういうことですか?
勉: 僕の生産と消費論では、交換の価値は主観的なものです。サイトでは無理やり点数をつけたりしていますが、そもそも主観的なものに通貨価値のような客観的な尺度を当てはめるのは無理があるんです。僕の好きな生物学者のI先生が、主観と客観について次のように書いておられます。「多くの人は多分、客観は普遍性が高いが、主観は特殊なものだと、漠然と思っているに違いない。しかし、これは多分正反対なのである。(中略)たとえば、客観の代表は数学であり、科学である。(中略)客観はそれを理解できる人間の脳の機能としてしか存在しない。だとすると、それは極めてマイナーな存在である他はない。それに対し、ネコは主観しか持っていないが、私の主観と共鳴しあって、相互理解が可能である。故に、普遍はむしろ主観の中にこそあるのだ」というんですけれど、I先生はネコとコミュニケートできる能力にこそ普遍が宿るとおっしゃりたいんです。これを僕の話に引き付けていえば、客観が「通貨」で、主観が「生産と消費の価値等価性」です。通貨はそれが流通する範囲でしか意味を持ちませんが、主観、即ち生産と消費の価値等価性は、いつでもどこでも通用する普遍的なものだといえるんです。
A: サイトで在庫の問題がちょっとだけ語られていますよね。引用してみると、「フードチェーンや流通チェーンが長ければ長いほど、そしてそれが大量に生産されるものであればあるほど、チェーンの中にいる一人ひとりの感動の幅は小さいのではないかということだった。そして、それらの商品の在庫が多ければ多いほど、感動が間延びしてしまうような気がした。コンビニの棚に置かれた古い雑誌や、賞味期限の切れた食品に対して、一体誰が感動するのだろうか」というところなんですけれど。
勉: 在庫の問題ですね。僕は最初、これを流通時間の問題として捉えていたんですけれど、それだけではなく、在庫が通貨価値で測定されること自体に問題があることに気づいたんです。経済学でいう「コンドラチェフの波」とかの景気循環理論が、在庫、特に過剰在庫と関連しているといいましたよね。政治経済学者のS先生の御本に、「資本主義社会は製品の在庫を溜め込む『ストック型経済』である。 (中略)過剰在庫と過剰投資(工場と商品の作りすぎ)は、いわば現在の資本主義経済システムが、さけようにもさけて通ることの出来ない“宿痾”である」と書いてあります。これは僕がサイトに書いた「何でこんなことを考え始めたかというと今の大人たちはどうやって子供を騙してお金を取ることしか考えていないと思うからだ」ということへの答えであることに気がついたんです。つまり、大人たちが子供を騙してまで儲けを追求するのは、大人たちの体制がこの“宿痾”を抱え込んでいるからだということなんです。生物学や環境学で「生産者−消費者−分解者」という区分がありますよね。この場合生産者は植物で、消費者が動物、分解者というのはバクテリアのことで、それらの循環システムを生態系と呼ぶんですけれど、人間社会には、自然の生態系にはない過剰在庫と過剰投資という問題があるんですね。これは、客観的な「通貨価値」と、それによって生み出される利潤や金利の思想によって人ががんじがらめにされているからに他ならないんだと思います。
A: フードマイレッジという考え方があります。
勉: それはどういう考え方ですか?
A: 輸入食料の総重量に、輸送距離をかけたもののことで、食生活にどれだけ輸送コストをかけているかということを示す指標のことです。2001年のランキングでは世界の中で日本がダントツの一位だそうですよ。
勉: いまの日本には必要のないものが溢れかえっていますよね。それは、多くの人が通貨価値だけに縛られているからだと思います。<続く>