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■オリジナル作品:「太陽の飛沫」(目次

「太陽の飛沫」 第6回

 宿題の本に飽きた英二は伸びをして窓の外を眺めた。葉を落とした木立の後ろに寂寥とした秋の空が広がっている。冷たい空気が窓ガラスのすぐ向こうまで攻め寄せているが、内側はスチームが程良く部屋を暖めていた。図書室には相変わらず英二の他に誰も居ない。

 英二は決心して、先程本棚から抜き取っておいた一冊の日本語の絵本を机の下から取り出した。その薄い絵本を偶然本棚に見つけたとき、英二は懐かしい感情に駆られて思わず手を伸ばしたのだった。聞いた話では、英二の前にもこの学校に日本人の生徒がいた。絵本はその生徒が何らかの理由で図書室に残していったものだろう。本は、次郎という少年が出入りの職人から狐の話を聴かされるところから始まっていた。

「……あれは狐に違えねえ。一仕事終えて帰る途中、お宮さまの前を通りかかった時のことだ。辺りはすっかり暮れちまって一寸先も見えねえ位になっていたんだが、引いていた荷車が急に重くなって少しも前へ進まねえ。妙なこともあるもんだ、と思ってな。そこで考えたんだがこれは狐の仕業だと。しかしその時儂は狐の欲しがるようなものは何一つ持っとらんかった。ただ、倅に買ってやった塩煎餅の包みを持っとったで、それを後ろへ『これか!』と言うて放り投げた。すると車が急に軽くなって前へ進んだのよ。……」
 暫くたったある日、街まで豆腐を買いに行かされた次郎は、寄り道をしたせいで帰りがすっかり遅くなってしまう。賑やかな商店街を抜けるともう日がとっぷりと暮れ、次郎が家近くの鎮守の森まで来ると、沿道の明かりが夜道を僅かに照らすばかりになっていた。森の中を通る道は次郎を待ち受けるように、両側から黒い木々が深々と覆い被さっていた。次郎は出入りの職人から聴いた狐の話を思いだしてすっかり心細くなった。泣き出したいのを我慢して、次郎は走った。豆腐を入れた飯盒鍋が激しく揺れて中身が崩れてしまうことなど構う余裕もなく、次郎は無我夢中で夜道を走り続けた。―――

 英二は、日本語の本をそこまで読むと強い眩暈がした。これは誰もが経験する暗闇に纏はる恐怖譚だが、それだけではなかった。この物語はかつて自分自身の住んでいた世界ではなかったか、英二はそう思ったのだ。夕暮れ時の豆腐屋の笛音、商店街の雑踏、暗い夜道、鎮守の森、……自分は紐育へ来るまで確かにその世界に居たのだった。そしてそれは今の生活と何と隔たった世界であろうか。挿絵を見ると、子供が着物の裾を翻して夜道を走って来る。木立が頭上に迫り、子供は不安な気持ちを振り払ふように口を一に結んでいる。英二は瞠然として顔を上げた。図書室は相変はらずしんとして、天井の蛍光燈が室内を明るく照らしている。
「遅くまで残っていたのね」
 気付かぬうちに担任のミセス・パッチェンが図書室に入っていた。
「宿題の章は読み終わりましたか?」
「まだ半分までですが途中から別の本を読んでいました。昔僕が住んでいた所に良く似ているので思わず引き込まれてしまって」
 英二はそう言い訳をすると、手にした絵本を彼女に渡した。ミセス・パッチェンは本のページを捲ると舌を鳴らし、きつい調子で、
「この本のことは忘れて宿題に戻りなさい」と言った。
「何故?」英二は驚いて訊いた。
「此処は米国です、日本ではありません。早く英語を覚えて他の生徒と同じように授業の内容を理解して貰う為にこうして特別に残ってもらっているのですよ。日本語の本は役に立ちません」彼女はそう言うと、手にしたその本を勢い良く後ろの本棚へ放り込んだ。――― <続く>
「太陽の飛沫」 第6回(2009年12月10日公開) |目次コメント(0)

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