タクシーは、ホテルを出てからおよそ三十分して礼子の住むアパートの近くに到着した。孝二郎は二人を降ろしたあと、運転手にしばらく其処で待つように告げて車を降りた。―――
前菜を食べ終え、運ばれてきた鯛のムニエルに手を付けながら、孝二郎は先を続けた。シャルドネはまだグラスに半分残っている。
―――表通りから路地に入ってしばらく行くと、建物の前に若い男が立っていた。昨日一緒にレスリーを空港で出迎えた川本文哉だと礼子が教えてくれた。文哉は人の良さそうな青年で、はじめ礼子とレスリーが別の男性を伴って帰ってきたことに少し驚いたようだったが、礼子から事情を聞くと納得が行った様子で「ナイルとは大学の友人です」と孝二郎に挨拶した。
アパートといっても、その建物は、しっかりとしたコンクリート造りの四階建てマンションで、二人の部屋は二階の中央に位置していた。ドアを入ると真中に共有の居間とダイニング・キッチンがあり、左右にナイルと礼子それぞれの部屋、玄関脇に共通の風呂場、洗面所とトイレがあった。床は落ち着いた木目で統一されていた。ナイルの部屋は、主が突然居なくなったことを物語るように雑然としていて、勉強机の上にはノートが開いた儘になっていた。
娘の部屋に入るなりレスリーがノートを手にしようとしたので、孝二郎は「調べ終わるまで部屋のものに手を付けないで下さい」とそれを制した。孝二郎は我ながら自分の探偵然とした口調が可笑しかったが、この際自分がその役割を果たすしかないと覚悟を決めた。
「ナイルが出かけたあと、彼女の持ち物に手を触れましたか?」孝二郎は礼子に訊ねた。
「何か手掛かりが見つからないかと思って、机の引き出しや洋服ダンスの中とかを探しました。ナイルは日記を付けていたのですがその手帳が見当たりません。でもいつも手帳は持ち歩いていましたから、部屋になくても不思議はありません。ああそれと、手紙の文字がナイルのものであることをよく確認するために、机の上の大学講義用ノートのページを捲りましたが、後でまた元のページのところに戻しておきました」
ナイルの部屋は、南側の窓に面して勉強机があり、その脇に寝台があった。北側の壁際には洋服ダンスがある。旅行鞄も着替えも洋服ダンスの中にあり、ナイルが旅行に出る準備をしていた様子はなかった。孝二郎は例のマッチ箱が入った籠を含めて、部屋の中を隅々まで丁寧に調べた。勿論、素人なりにという範囲で。孝二郎はそのあと続けて居間や台所、洗面所などを調べた。それらの場所も特に変ったところはなかった。洗面所にはナイルの化粧用品や歯ブラシなどがそのまま置かれていた。
調べ終えて中央の居間に落ち着くと、孝二郎はレスリーに「娘さんのものに触れてもいいですよ」と偉そうに許可を与えてから、改めて礼子に「ナイルが居なくなった日の状況を教えてください」と訊ねた。
「その日の朝は、いつものように一緒に朝食をとってから、私が先に家を出ました。大学の授業のスケジュールによっては一緒に家を出ることもあるのですが、大抵の日は勤めている私の方が先に家を出ます」
「その日家を出るときに何か話し合いましたか?」
「はい。私が今日は仕事で遅くなるからと言いましたら、自分は帰宅が早いから二人分の料理を作り、待たずに先に食べていると言っていました」
「礼子さんが戻ったとき料理は残されていたのですか?」
「いいえ。その日は料理をした形跡がありませんでした」
「書き残したものもなかったのですね?」
「ありませんでした」
「その夜は結局どうされたのですか?」
「簡単なもので夕食を済ませ、ナイルの帰りを待っていると、ここに居る文哉さんから電話が掛かってきました」
「その日の午後ナイルと大学で会った際、今日は訳があってアパートへ帰れないから礼子さんに伝えておいて欲しいと頼まれたのです」文哉が言った。
「アパートへ戻れない、とはどういう理由だったのでしょうか?」
「理由は特に言っていませんでしたが、少し慌てた様子でした」
「文哉さんに伝言を頼んだのは何故でしょう、ナイルは自分で直接礼子さんに連絡を取ることが出来なかったのでしょうか?」<続く>