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■オリジナル作品:「太陽の飛沫」(目次

「太陽の飛沫」 第5回

2 プールにて

 高い監視台の上のパナマ帽を被った男が、サングラス越しに物憂げにプールを見廻している。紐育の夏は今日も茹だるように暑い。

 触れば火傷しそうな程熱く灼けたプールサイドに、英二は大きなバスタオルを敷いて寝そべっていた。プールでは子供達が硬貨拾いをして遊んでいる。誰かが水中へ硬貨を放り込むと、それを皆が競いあって拾うだけの単純な遊びを、子供達は飽きもせず既に半時近くも続けていた。子供達が水に跳び込むたびに大きな飛沫が上がり、黄色い喚声がプールサイドにまで伝わって来る。目を閉じてその喚声を聴いていると、英二の脳裏に自分が子供だった頃の記憶が蘇ってきた。古い日本の記憶だ。

 ……夏祭の夜。遠くから囃子の音が聴こえる。英二は母親に手を引かれて賑やかな夜店の並ぶ神社の参道を歩いていた。参道には煎餅や綿飴を売る駄菓子屋、金魚掬い、ひょっと面や法被を吊るした店などが並び、それぞれの店の奥には明るい裸電球が燈っていた。人込みに押されながらしっかりと母親の手を握っていたつもりが何時の間にか逸れてしまひ、気が付くと、英二は賑やかな祭りの喧騒から離れた神社の拝殿の前に一人で立っていた。英二は朱い匂欄の下へ身を辷らせた。格子窓から奥の本殿を窺うと、中からひんやりとした黴臭い空気が流れてくる。本殿の奥の闇を窺いながらどの位そこにいたのだろう、気がつくと後ろから呼ぶ声がして、蒼白な母の顔がこちらを睨んでいた。

 ……また別の記憶。春の午後、庭の山吹が障子に影を揺らし、鶯の声が聴こえる。部屋の隅に置かれた盥から仄かに湯気が昇っている。英二が日本で過ごした大森の家は明治時代に直子の父親が建てた家で、広い庭に築山や井戸のある大きな屋敷だった。英二は今その祖父眞一郎の病床で、心配そうに額を寄せ合う親族の様子をすこし離れたところから眺めている。自分の名を呼ぶ祖父の掠れた声がした。皆の視線に促されて英二は祖父枕元へ坐った。祖父眞一郎は英二をぢっと見据えてから、安心したように目を閉じ、そのまま静かに息を引き取った。

 祖父が死んでまもなく両親が離婚した。数ヶ月後、英二は優子と共に父に連れられて渡米したのだった。紐育へ着くと間もなく英二は、マンハッタンのアパートから近くの公立小学校に通い始めた。それ以降、英二は新しい環境に全力で慣れていったという事が出来る。やがて友人達も出来、日本のことは次第に忘れられた。しかし一度だけ、英二にとって自分が誰なのかを思い知る、忘れられない出来事があった。プールサイドで、英二はその時のことを思い返してみる。

 ―――冬の間近い或る秋日の放課後のこと、英二は一人で小学校の図書室に残されていた。校舎の半地下に位置するその図書室では、まだ外の明るいうちから蛍光燈が点けられていた。背の高いスチール製の本棚、机や椅子が、その光を受けて床に幾何学模様の影を落としていた。先程までフットボールに興ずる生徒達の歓声が校庭から聴こえていたがいつのまにかそれも止み、誰も居ない図書室の中はしんと静まり返っている。

 英二は、担任のミセス・パッチェンから与えられた本を読まなければならなかった。紐育へ来てから数ヶ月が過ぎ、日常会話程度ならば大分話せるようになっていたが、語学力としてはまだ不充分なので、英二は週一回放課後こうして図書室に残されているのだった。宿題は米国独立戦争に関する歴史の本だった。

「……多くの人々は、問題はジョージ三世ではなく、英国議会側にあると信じていた。しかしジョージ三世は第一回大陸会議が開かれている最中、ノース卿宛てに、『賽は投げられた。植民地の者どもは余への服従を選ぶか、余と戦って勝利を収めるかの他に選択の道は残されていない。余は善き事を望む。故に、余に従はぬ者は裏切り者かさもなくば悪党である』と書き送っていた。
第一回大陸会議は、一七七四年九月、ペンシルバニアの中心都市、フィラデルフィアで開かれた。マサチューセツの代表を除く十二の植民地から、五十五名の代表達が集まった。会議は、前年十二月に起こったボストン茶事件に対する英国側の懲罰処置であるボストン港封鎖の無効を決議し、さらに、対英輸出入のボイコット、並びにそれを有効足らしめる監視委員会の設置を決定した。……」

 ジョージ三世の、自分に賛成しない者は裏切り者か悪党である、という理屈を英二は米国へ来てから周囲の会話の中で幾度となく聞いた。そこまで極端では無くとも、白と黒がはっきりと分かれたチェス盤の様に、自分と他人の考えを峻別する米国人の思考法が英二にも解り始めていた。<続く>
「太陽の飛沫」 第5回(2009年11月20日公開) |目次コメント(0)

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