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■オリジナル作品:「僕のH2O ブログ編」(目次

「僕のH2O ブログ編」 第2回

勉: 次に二番目の点ですが、僕もはじめは、半分は自分の為、半分は人の為と考えたって同じことではないかなと考えていたんです。でも行為の価値等価性を考えると、それでは無理が生ずるんです。
A: 行為の価値等価性?
勉: どういうことかというと、まず言葉の定義として、「ある人が他人のために成す行為(金銭授受の有無は問わない)」を「生産」と呼んでみることにしましょう。逆に、「ある人が自分のために成す行為(これも金銭授受の有無は問わない)」を「消費」と呼んでみます。そうすると、社会構成員としての人は、その人生の中で、「他人のために成す行為」即ち「生産」と、「自分のために成す行為」即ち「消費」とを繰り返していくと考えることができます。ここまではいいですね。
A: はい。
勉: 今度はそれを、社会の側から観察すると、ある人の「生産」は別の人の「消費」であり、ある人の「消費」は別の人の「生産」であることがわかります。そして、その行為の価値は相互に主観的なものであり、互いに等しいと考えることができるのです。わかりますか?
A: ある人の「生産」は別の人の「消費」であり、ある人の「消費」は別の人の「生産」であるという辺りの話は、そういえば、生産・消費という言葉こそ使っていませんでしたが、「僕のH2O」サイトでもかなり詳しく書かれていましたね。旅行で綺麗な小川に感動した話や、レストランの料理に使われる肉や野菜などの場合、人の役に立ったことの連鎖をどう考えるかなどのところです。
勉: 綺麗な小川には、それを綺麗なままに保つ努力をして呉れる人がいるということ、睡眠を取るなどといった誰の世話にもなっていないようなことでも、そのために雨風を凌ぐことができる家を作ってくれた人がいる、ということですね。
A: レストランの料理について書いてあったのは、料理に感動したお客さんがいたとして、料理に使われた肉や野菜を作った人はどう評価されるのか、ということでした。その場合は、まず肉や野菜を作る人と料理人との生産と消費のやりとりがあって、その次の段階で、お客さんと料理人との間で生産と消費の交換がある、という具合に二つ、あるいはそれ以上の交換に分解して考えればよいということでしたね。
勉: そういうことです。
A: ここまでのところで、行為の価値が相互に主観的なものというのは分かりますが、価値が等しいというのはどういう意味でしょうか?
勉: 価値がお互いの主観の中にしかないということは、外から客観的な基準で図ることができないということです。だから、行為における「作用と反作用」と考えて、ベクトルが違っていても双方の力は互いに等しいと考えられるわけです。それが僕のいう行為の価値等価性なんです。
A: 半分は自分の為、半分は人の為という考えでは、行為の作用、反作用というダイナミズムと、その「価値等価性」が導き出せないということか!だから、行為を「人のためのもの」と「自分のためのもの」とに分けて考えた方が分かりやすい、ということなんだ。
勉: そうなんです。半分は自分の為、半分は人の為という場合、半分という言葉そのものが厳密ではありませんよね。六:四とか七:三とか言い出したらきりがありません。それに、何かに打ち込んでいると、半分は自分の為、半分は人の為とか、いや今は七:三だ、とか考える余裕なんかありませんよね。全身全霊をあげて自己実現に打ち込むことが、結果的に人の為になる、そういうことなんだと思います。
A: なるほど。全部足して考えれば、人間の生産と消費は半々なんだけれど、行為一つ一つを半分に分けるのは、中途半端な捉え方ということになるわけですね。<続く>
「僕のH2O ブログ編」 第2回(2009年10月02日公開) |目次コメント(0)

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