古い二階家の続く区画を過ぎ、比較的裕福な黒人達の住む一軒家の多い地区に入ると、家々の庭先に咲く針槐の花が香しい匂いを運んできた。右手に高い尖塔アーチのある石造りの教会が見える。鋳鉄製の門柱に「ニューロッシェル洗礼派教会」と書かれた銅版の表札があった。門前に立つ篠懸の木陰で、汚れたシャツの子供が二人しゃがみ込んで、路上のアスファルトに熱心に絵を描いている。
英二は歩きながら、マンハッタンで久しぶりに叔母と再会した日のことを思い返した。英二達の母直子は、峻介と別れたあと、念願だった洋裁店を青山に開き、今では名の売れた服飾デザイナーとして日本で活躍している。叔母の良子は直子と二人姉妹で昔から仲がよく、洋裁店を開いた当初から姉の仕事を手伝っていた。この夏良子が紐育へ来たのは、来年二月、直子が日本人として初めて紐育で開くファッション・ショーの準備の為だった。
―――その日会いに行く事は伝えてあったので、英二と優子はホテルに着くと、エレベーターで直接叔母の部屋を訪ねた。扉を開けて二人を迎え入れた良子は、白いブラウスに黒のスラックスという軽装で、髪を後ろに束ね、夕方から開かれる打ち合わせの資料をいろいろと準備しているところだった。
「紐育でファッション・ショーを開くなんて並大抵のことぢゃないわね。日本人は着物を着て生活していると思っている人が今でも大勢居るのよ」良子はそう嘆き、二人を窓辺の椅子に座らせると「ちょっと待っていてね。いま終るから」と言いながら机に戻り、書類の山の中からモデルの写真が入ったファイルの束を抜き出して、寝台の上に置いた手提鞄の中に一枚一枚確認しながら入れはじめた。
「やっとショーの会場だけは確保したけれど、これから巴里に居る日本人モデル達の手配をしなければならないの。姉さんがシャネルやディオールに負けないオートクチュールを作るって張り切っているのに、パートナーの私の手違いで上手くゆかなかったら大変だわ」
良子は四十を少し超える歳だがまだ独身で、姉よりも外向的だ。こういう仕事が向いているのだろう。
「私達に手伝えることはありませんか?」優子が声をかけた。
「有り難う、でも今は大丈夫。もっとショーの時期が近づいたら何か手伝ってもらう事が出てくるでしょうけれど」資料の準備を続けながら良子が言った。
鞄に書類を詰め終わると、良子は窓際の椅子に二人と向かい合って腰を下ろした。二人と会うのは、去年直子と一緒に巴里からの帰り紐育へ立ち寄ったおり以来のことだ。
「そういえば、姉さん、九月に入ったらあなた達に会いに紐育へ来るって昨日電話で言っていたわ。峻介さんともよく相談してあなた達の身の振り方を決めたいそうよ」良子が言った。
「そのことで母に手紙を書きました」優子が答えた。「相談なんかしたら父は私たちを残せというに決まっているわ。父は昔酔っ払って、米国へ来たのはそもそもお前達を母親の家から取り返す為だったと私に云ったことさえあるのよ。私たちのことは相談するのではなくて、子供たちを引き取る、とはっきり言わなければ駄目よ。ショーの時に何か手伝うことがあるならそれまで紐育にいてもいいけれど、再婚した父と一緒にこっちで暮らすのはお断りよ」
優子はこの七月に十二歳になったばかりだった。やせた体つきは少女らしさを残しているが、母親譲りのよく通った鼻筋と、受け口気味の唇が、大人にも負けぬ勝ち気な性格をあらわしている。優子は以前から、峻介はいつまでも帰国しないだろうと思っていた。そして自分はいざとなったら一人ででも日本へ帰りたいと考えていた。だから兄から父の再婚話を聞いた時、すぐに日本へ帰りたいと言ったのだった。
「英ちゃんはどうなの?」良子は英二に訊ねた。
「僕はまだ決めていません」英二は窓の外の木立を眺めながら答えた。
「私も本当はあなた達に日本へ帰って来て欲しいわ。でもそれは姉さん達が決めることでしょう。酔っ払って変なことを云ったかもしれないけれど、峻介さんもあなた達のことを考えていない訳はないと思うわ」
「父が私達を残すとしたら、それは愛情からではないわ。叔母さまも含めた飯倉家に対する復讐心からそうしたいだけなのよ。六年間一緒に暮らしているけれど、父親の愛情を感じたことなんて私、一度だってないわ。誤解しないで頂戴、渡米したことを悔いている訳ではないの。父の接し方は良く言えば放任主義で、その御陰で色々と貴重な体験が出来たわ。でも、頼れる大人は家政婦のエルビーラしか居ないという状態がずっと続いて、もうそろそろ限界だと思うの」優子は一呼吸措いて更に続けた。<続く>