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■オリジナル作品:「蔦の館」(目次

「蔦の館」 第1回

第一章

 綾木孝二郎が長い海外生活を終えて帰国したのは、日本のバブル景気が弾けて間もない一九九二年の春のことであった。アメリカで友人に薦められて買ったIT関連の株がIPO(株式公開)されたお陰で値上がりし、思いがけず纏った金(それもかなりの額)が懐に入ったので、勤めている会社を辞めて帰国することにしたのだった。

 日本へ戻ると、孝二郎はその金で都内に事務所を開いた。事務所といっても、いずれコンサルティングのようなことを始めれば良いと云った気楽な心持で作った大きな書斎のようなもので、孝二郎としては、暫くそこで好きな歴史や地理の研究をする積りだった。ただし無職というのも何なので、事務所の開設と同時に一応「AKコンサルティング」という有限会社を登記しておいた。

 孝二郎は九二年の十一月で四十歳になる。日本の私立大学を卒業後、アメリカ西海岸へ留学、大学院で経営学を学び、卒業後はそのまま西海岸のエレクトロニクス企業に就職した。その後転職と引越しを繰り返し、気が付けば十年以上も日本を離れて過ごした。未だに独身である。性格は几帳面で探究心があり、思い遣りも充分備えているのだが、社交面で面倒くさがり屋のところがある上に、喜怒哀楽をあまり表情に出さないので、他人、特に女性からは、冷たい人間と誤解されることが多かった。背は一七八センチ、学生時代にテニスをやっていたので体格は良く、運動神経も悪くなかった。それなのに未だに独り身なのは、別に女嫌いな訳ではなく、機会がなかった訳でもなく、受けた誤解を解く努力すらしないその面倒くさがり加減が主な理由なのである。

 事務所は九三年の冬、上大崎の高台にあるビルの五階に完成した。知り合いの建築士に設計・施工を依頼したその事務所は、商売の当てがない会社としてはとても贅沢な作りに仕上がっていた。今からみればバブルの余熱としか言いようがない。ガラス扉を押し開くと玄関ホールがあり、正面に高窓を背にして受付の机があった。突当たり向かって左側が孝二郎の個人オフィスで、右側はダイニングルームだった。ダイニングルームの奥にはキッチンがあった。玄関ホールのすぐ右側はスタッフ二、三人が入れる大部屋になっていたが、当然のことながらまだそこには誰も居ない。突き当たり左側の孝二郎の個人オフィスは広々としていて、机正面の窓から小さく富士山が見えた。個人オフィスの後ろ、すなわち玄関ホールのすぐ左側には、三つの独立スペースが並んでいた。入ってすぐのところにトイレとシャワールーム、その奥に簡単なワークアウト・スペースがあって、一番奥には、遅くなった時に寝泊りが出来るようベッドが設えてあった。この三つのスペースは直列するドアで繋がっていた。トイレとシャワールーム、および一番奥のベッドルームへは、オフィスの側からも直接出入りできるようになっていた。

 この事務所のために孝二郎は懐に入った金の大半を費やしてしまった。しかし、本人はそれをあまりもったいないと思わなかった。一つには、それがもともと思いがけず手に入れた金だったこと。二つには、(後に述べるように)孝二郎は親の持ち家を自宅として使っていて、残りの金でしばらくはゆっくりと暮らせたこと。三つには、そのあと金に困れば、必要に応じてオフィスを売却すればよいと考えたからだ。さらにもう一つ付け加えるとすれば、彼はそもそも金銭感覚に疎かった。いずれ始めようと思っていたコンサルティングの仕事も、後々証明されるようにけっして金儲けには繋がらなかった。だから平気でこのような事務所を作ってしまったわけだ。
 
 ただし、面倒くさがりで金銭感覚に疎いこういう男にも取り柄はあった。人に親切なところだ。喜怒哀楽をあまり出さないから表からは分りにくいけれど。これから起る出来事も、そんな彼の親切心から始まったのである。

 孝二郎が入居して一週間もしないある日、その暇な事務所を訪ねてきた一人の女性があった。その日、孝二郎は朝から一人で机一杯に江戸の古地図を広げ、坂の多い山の手の地形をあれこれ調べていたのだが、午前十時過ぎに、ドアをコツコツと叩く音がしたので、客があろう筈も無いと訝しく思いながらドアを開くと、上品な西洋の中年女性が心細げな表情でそこに立っていた。

「受付にどなたもいらっしゃらなかったので、中に入り、直接お部屋のドアをノックさせて戴きました」ショルダー・バッグの肩紐を強く両手で握り締めたまま、女性は綺麗なアクセントの英語で言った。年の頃は五十歳前後、栗色の髪をアップに纏め、デザイナー・スーツを上品に着こなしている。美しい英語の発音から、アメリカ西海岸の裕福な階層(クラス)に属しているらしいことが判った。その眼差しに只ならぬ様が伺われたので、孝二郎は「どうぞ」と、思わず女性を部屋へ招き入れた。<続く>
「蔦の館」 第1回(2009年09月10日公開) |目次コメント(0)

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