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■オリジナル作品:「百花深処 II」(目次

「百花深処」 <東京の地下と後藤新平>

 <「三四郎」と「青年」>と<芥川龍之介の苦闘>の項で参照した『森鷗外の「帝都地図」』(洋泉社2011)の著者秋葉俊氏には、他に『新説 東京地下要塞』(講談社2006)という著書もある。前著が徳川時代から明治に至る江戸/東京の地下の話だとすると、後著は明治から現在に至る東京の地下の話。後著にある後藤新平の地下に関する軍批判が興味深かったので、今回はそこに焦点をあてて書いてみたい。後藤新平については以前『後藤新平 日本の羅針盤になった男』山岡淳一郎著(草思社2007)という本を読んだことがある。同書の帯表紙には、

(引用開始)

内務省官僚、台湾民政局長、満鉄総裁、東京市長を歴任し、壮大な帝都復興計画を立案した不世出の政治家の軌跡に、近代から現代へと続く日本の可能性と限界を読み取る。時代を超えた壮大な構想力で近代国家としての針路を示したこれほどの傑人が、日本にいた。

(引用終了)

とあった。まず奥州市立後藤新平記念館のHPを参照しながら本項に関連する事項を時系列に並べよう。後藤は森鷗外よりも五歳ほど年長である。

安政04年(1857):06月、陸奥国丹沢郡に生まれる
明治01年(1868):11歳、明治政府成立
明治10年(1877):20歳、医術改行免許下付
明治15年(1882):25歳、板垣退助遭難時負傷の手当てをする
明治16年(1883):26歳、安場和子と結婚
明治18年(1885):28歳、内務省衛生局第二部長就任
明治21年(1888):31歳、東京都市改正(市区改正)条例制定
明治22年(1889):33歳、「国家衛生原理」を著す
明治23年(1890):33歳、ドイツ留学
明治25年(1892):35歳、帰国、内務省衛生局長就任
明治27年(1894):37歳、日清戦争起こる
明治28年(1895):38歳、日清戦争終結
明治29年(1896):39歳、台湾総督府赴任
明治31年(1898):41歳、台湾総督府民政局長就任
明治32年(1899):42歳、「軍機保護法」「要塞地帯法」施行
明治36年(1903):46歳、貴族院議員に勅選される
明治37年(1904):47歳、日露戦争起こる
明治38年(1905):48歳、日露戦争終結
明治39年(1906):49歳、満州鉄道総裁就任
明治41年(1908):51歳、桂内閣II逓信大臣兼鉄道院総裁就任
明治44年(1911):54歳、01月大逆事件判決
明治44年(1911):54歳、08月内閣総辞職
大正01年(1912):55歳、桂内閣III逓信大臣兼鉄道院総裁就任
大正02年(1913):56歳、内閣総辞職
大正03年(1914):57歳、第一次世界大戦起こる
大正05年(1916):59歳、寺内内閣内務大臣就任
大正07年(1918):60歳、04月寺内内閣外務大臣就任
大正07年(1918):61歳、09月寺内内閣総辞職
大正07年(1918):61歳、09月原敬内閣成立
大正07年(1918):61歳、11月第一次世界大戦終結
大正09年(1920):63歳、東京市長就任
大正10年(1921):64歳、原敬暗殺される、高橋是清内閣成立
大正12年(1923):65歳、04月東京市長辞任
大正12年(1923):66歳、09月関東大震災
大正12年(1923):66歳、09月山本内閣内務大臣就任
大正13年(1924):67歳、山本内閣総辞職
昭和04年(1929):71歳、04月死去

 『新説 東京地下要塞』の副題は「隠された巨大地下ネットワークの真実」。内容について本帯表紙の文章を引用する。

(引用開始)

禁断の領域にはじめて踏み込んだ!!
権力者たちがひた隠しにしてきた驚愕の舞台裏が、いま明らかになる!!

(引用終了)


秋葉氏は以前から『帝都東京・隠された地下網の秘密』(洋泉社2002)や続編の『帝都東京・隠された地下網の秘密【2】』(洋泉社2004)などで東京の地下を探ってこられたが、この本(と次書『森鷗外の「帝都地図」』)は、地下構造の遷移を歴史的に追う内容となっている。本書の章立ては次の通り。

第一章 サンシャインシティの地下施設
第二章 足元に広がる洞道
第三章 現代の極秘地下施設
第四章 都営浅草線の真実
第五章 新宿・都営軌道
第六章 天下を掌握したのは誰か
第七章 先に地下があった

後藤新平の話が出てくるのは第四章と第五章。まず第四章からその部分を引用しよう。

(引用開始)

 明治中期から大正にかけて、薩長が交互に政権を握っていた。原敬の前の首相は寺内正毅、長州の陸軍元帥である。寺内内閣の内務大臣は後藤新平、大正期を代表する政治家である。(中略)一九一七(大正六)年、後藤新平は帝国鉄道協会と土木学会を招集し、東京市内外交通委員会を組織することを決定した。(中略)それに先立って後藤は内務省に都市計画課を設置し、国会議事堂の建設に向けて臨時議員建築局を創設している。
 当時、後藤は都市計画の第一人者で、先の委員会の地下鉄計画は、その都市計画の一部として作成されていた。この時期、後藤が東京の都市計画を再構築していたのは、ロンドンとパリが空爆されていたからである。東京を防空都市、不燃都市へとシフトさせようという計画が進められていた。

(引用終了)
<同書 126−127ページ(フリガナ省略>

寺内内閣はしかし、翌年の大正07年(1918)突然の米騒動で瓦解してしまい、委員会の地下計画は葬られてしまう。そのあと原敬内閣が成立し、後藤は東京市長に就任するが、大正10年(1921)に原敬が暗殺され、後藤は大正12年(1923)4月に市長を辞任。そこへ同年9月に関東大震災が起きる。すぐに山本権兵衛内閣が発足すると、後藤新平はふたたび内務大臣に就任した。同書第五章から引用する。

(引用開始)

 帝都復興の事業を指揮していたのは後藤新平である。後藤は震災の翌日に帝都復興院の総裁に就任、東京じゅうの道路を引き直す計画を立てていた。この計画は内務省と東京市に受け継がれ、当時の東京の外周をまわる道路を「明治通り」、東京を南北に縦断する道路を「昭和通り」などと名づけられている。
 道路に天皇の名を冠するというのは、後藤が市長時代に何度も軍部に計画をつぶされたことから思いついたものだといわれ、つまり、軍部の反対を突破するための秘策だったということである。(中略)明治通りや昭和通りの下にはおそらく内務省委員会のように道路が敷かれるまえから地下ルートがつくられていたのではないだろうか。そのトンネルは市街地や国有地、外堀の下などを走っていたが、後藤はそれに沿って道路を敷くことで極秘の価値を失わせ、地下ルートを国民の手に戻そうとしていたのではないだろうか。

(引用終了)
<同書 156−160ページ(フリガナ省略)>

後藤新平は都市計画の第一人者として、地下を含めた東京の都市計画を立案したが、軍部の秘密主義に阻まれ続けたので、鷗外同様、出来る範囲でその現状国民に知らせようとしたという。

 後藤はしかし、翌年12月に起きた虎の門事件による内閣総辞職に伴い、内務大臣の職を離れる。その時のことを『後藤新平 日本の羅針盤になった男』から引用しよう。

(引用開始)

 歴史に「もしも」を挟む空しさを承知でいえば、(虎の門事件の犯人難波大助の)銃弾が放たれず、山本内閣が通常議会で政友会と対決していれば、普通選挙法の実施は早まり、ドラスティックな政界再編が行われていた可能性が高い。復興予算が復活し、東京の姿形は変わっていただろう。ひょっとすると、内閣総理大臣、後藤新平が誕生していたかもしれない。(中略)
 大衆の風を受けて昇った新平は、大衆のなかに鬱勃とわきあがるイデオロギーによって引きずり下ろされ、変転する権力闘争の舞台からフェードアウトしていく。軍靴を踏み鳴らす音の高まりを聞きながら……
 新平の「公共」の思想は、見果てぬ夢として日本の未来にたゆたうのであった。

(引用終了)
<同書 364−365ページ(括弧内は引用者による補足)>

 後藤新平は、大正15年(1926)2月に脳溢血の発作に見舞われ、その三年後の4月に死去した。昭和02年(1927)の芥川に続き昭和04年(1929)4月、日本は優れた知性のさらなる一角を失い、社会はますます混迷を深めてゆく。
「百花深処」 <東京の地下と後藤新平>(2026年04月15日公開) |目次コメント(0)

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