前回<「三四郎」と「青年」>の項で、夏目漱石と森鷗外の反政府的姿勢を論じたが、二人の死後(漱石大正5年1916、鷗外大正11年1922)、こういった姿勢を若い文学者たちがどう受け継いだのかを探るべく、同じ時期に総合雑誌「文藝春秋」を始めた菊池寛の評伝『菊池寛アンド・カンパニー』鹿島茂著(文藝春秋2025)を読み始めた。そのなかで、菊池は自分が死んだら「文藝春秋」を芥川龍之介に託そうと思っていたことを知り、(昭和02年に)自死した芥川龍之介という作家についてより深く考えてみたいと思った。
芥川の作品は学生の頃、歴史に題材をとった『羅生門』や『鼻』、推理小説風の『開化の殺人』、『
蜜柑』や『舞踏会』などを読んだけれど、その後久しく読むことがなかったので、今回『路上』、『将軍』、『河童』、『秋』、『戯作三昧』などを読むと共に、『芥川龍之介』関口安義著(岩波新書1995)によって彼の生涯を辿った。
まずは国際芥川龍之介学会のHP等を参照しながらこの項に関連する事項を年代別に並べてみよう。
明治25年(1892):03月、東京市京橋区に生まれる
明治27年(1894):02歳、日清戦争起こる
明治28年(1895):03歳、日清戦争終結
明治32年(1899):07歳、「軍機保護法」「要塞地帯法」施行
明治37年(1904):12歳、日露戦争起こる
明治38年(1905):13歳、日露戦争終結
明治43年(1910):18歳、一校入学
明治44年(1911):19歳、大逆事件判決
大正02年(1913):21歳、東京帝国大学入学
大正03年(1914):22歳、02月菊池寛らと第三次「新思潮」発刊
大正03年(1914):22歳、07月第一次世界大戦起こる
大正04年(1915):23歳、03月『松江印象記』を発表
大正04年(1915):23歳、11月『羅生門』を発表
大正04年(1915):23歳、11月夏目漱石の木曜会に出席
大正05年(1916):23歳、02月『鼻』を発表、漱石から称賛を得る
大正05年(1916):24歳、07月東京帝国大学卒業
大正05年(1916):24歳、11月横須賀海軍機関学校英語教官就任
大正05年(1916):24歳、12月夏目漱石死去
大正07年(1918):25歳、02月塚本文子と結婚
大正07年(1918):26歳、07月『開化の殺人』発表
大正07年(1918):26歳、11月第一次世界大戦終結
大正08年(1919):27歳、03月大阪毎日新聞客員社員就職
大正08年(1919):27歳、05月『蜜柑』発表
大正08年(1919):27歳、08月『路上』発表
大正09年(1920):28歳、『舞踏会』『秋』などを発表
大正10年(1921):29歳、中国に旅行
大正11年(1920):29歳、01月『将軍』発表
大正11年(1920):30歳、07月森鷗外死去
大正12年(1921):31歳、関東大震災
大正13年(1922):32歳、初めて軽井沢に避暑
昭和02年(1927):34歳、03月『河童』発表
昭和02年(1927):35歳、07月自死
芥川は漱石からの称賛を得て作家の道を歩み始めた。また鷗外の作品も良く読み込んでいた。彼は漱石と鷗外の反政府的姿勢をどう受け継いだのか。そのことを『将軍』と『松江印象記』の二作によって跡付けたい。
『将軍』は大正11年(1920)、中国旅行の翌年に書かれた短篇。内容について『芥川龍之介』(関口安義著)から引用しよう。
(引用開始)
「将軍」は前年の中国旅行と深くかかわる小説である。中国で芥川は長沙などで排日的空気の接し、それがどこから来るのか思いを馳せていた。日本政府や日本人の横暴や傲慢さは、短期間中国を視察しただけでも十分察することができた。それが少し前の日露戦争時代からの物であったのを知った芥川は、ここにNという普遍化された冷酷な将軍を造型し、戦時下の異常な人間像とその犠牲になる人々を描き出したのであった。
小説「将軍」で注目すべきは、前半の「一 白襷隊」でのN将軍の冷酷無残な姿と、日露戦争の旅順総攻撃における決死隊の、死を前にしたさまざまな思いの描写である。また、XXという記号で表記される箇所が多いのが目立つ。官憲の介入による伏字である。十四箇所もの伏字の存在自体が芥川の批判精神の旺盛さを物語る。原稿紛失のため、XXの箇所は、現在でも復元されていない。
一、二の章の非情な将軍に対し、「三 陣中の芝居」では、善人で俗な人間N将軍が扱われ、「四 父と子」では、かつてN将軍の下で働いたことのある中村少将とその息子との、N将軍観のずれが話題にされ、物語は閉じられる。
(引用終了)
<同書 156−157ページ>
ということで、関口氏はこの短篇を「時代との誠実な闘いの中から生まれた反戦小説」と書いておられる。
作中N将軍のモデルは乃木希典と目されるから、<「三四郎」と「青年」>の項で古山氏が、『三四郎』における廣田老人の正体を乃木希典としたことと重なる。ここで芥川は、漱石の反政府的姿勢を正面から受け継いだと言えるだろう。
『松江印象記』は大正04年(1915)、芥川が島根県松江市に旅行した時の旅行記。まずは『松江印象記』の文章を一部引用したい。引用は『羅生門・鼻・芋粥』芥川龍之介著(角川文庫)から。
(引用開始)
橋梁に次いで、自分の心をとらえたものは千鳥城の天主閣であった。天主閣はその名の示すがごとく、天主教の渡来とともに、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分たちの祖先の驚くべき同化力は、ほとんど何人もこれに対してエキゾティックな興味を感じ得ないまでに、その屋根と壁とをことごとく日本化し去ったのである。寺院の堂塔が王朝時代の建築を代表するように、封建時代を表象すべき建築物を求めるとしたら天主閣を除いて自分たちは何を見いだすことができるだろう。しかも明治維新とともに生まれた卑しむべき新文明の実利主義は全国にわたってこの大いなる中世の城桜を、なんの容赦もなく破壊した。自分は、不忍池を埋めて家屋を建築しようという論者さえ生んだわらうべき時代思想を考えると、この破壊もただ微笑をもって許さなければならないと思っている。なぜといえば、天主閣は、明治の新政府に参与した薩長土肥の足軽輩に理解せらるべく、あまりに大いなる芸術の作品であるからである。
(引用終了)
<同書 222−223ページ(フリガナ省略)>
この冒頭の記述に関して、<「三四郎」と「青年」>の項で引用した『森鷗外の「帝都地図」』で著者の秋葉氏は、文中にある「天主閣」という言葉は(地下築城を前提とする)西洋築城術との関連を示唆するため明治時代に陸軍によって「天守閣」という言葉へ置き換えられた事実を指摘したうえで、芥川が堂々と「天主閣は(略)西洋築城術の産物である」と記したことを、「芥川には『東京方眼図』を発表した鷗外に通じる想いを感じる」と書いておられる。ここで芥川は、鷗外の反政府的姿勢をも受け継いでいる。
このように、時代認識も、批判的精神も、そして創作能力も十分にあった芥川は、しかし、昭和02年7月、35歳で睡眠薬過剰摂取により自死してしまう。『芥川龍之介』によると晩年の芥川は、体調不良や出版関係の問題、身内のトラブルや女性問題、執筆の遅れなどによって、ノイローゼに陥り苦闘を強いられていたとある。しかし、立ち直る切っ掛けは全くなかったのだろうか。
赤の他人の勝手な言い草にすぎないことを承知の上で思うに、本人まだ35歳、執筆はいつでも再開できると割り切って暫し筆を置き、必要な治療、体調管理のための運動、資金繰りのための会社運営、見聞を広めるための西洋旅行、などを行っても良かったのではないだろうか。菊池寛は芥川に「文藝春秋」を託そうと思っていたくらいなのだ。あまりに早く(23歳)人気作家としてデビューしてしまい、そのstatusを失うことを恐れ、思い切った転身が図れなかったのだろうか。
小休止したあとしばらくしたら執筆を再開する。その場合、社会問題や歴史などを扱う評論を「文藝春秋」に寄稿、エンターテイメントとしてのミステリーを書く、『舞踏会』のような格調の高い短篇小説を年に一、二作発表、翻訳物を出版する、その他紀行文や地方講演などで日銭を稼ぐ、といった「持続する作家生活」がありえたのではないだろうか。彼には推理小説風の『開化の殺人』があるし、紀行文の『松江印象記』などもある。そして菊池寛と一緒にルイス・キャロルの『Alice’s Adventures in Wonderland』を(一部だが)翻訳している。
大正から昭和にかけての日本は、藩閥政治から政党政治への転換がうまくゆかず、軍による独裁傾向と言論弾圧が強くなっていく。芥川の他にも漱石と鷗外の衣鉢を継いだ若い作家はいただろうが、芥川龍之介が生きていれば、相当程度、世論を良識的な方向へ引っ張っていってくれたのではなかろうか。早世が残念だ。昭和02年7月、日本は優れた知性の一角を失い、社会はいよいよ混迷を深めてゆく。