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■オリジナル作品:「百花深処 II」(目次

「百花深処」 <「三四郎」と「青年」>

 昨年末に『ミステリー作家漱石の謎を解く』古山和男著(帝京新書)という本を読み、それを年の初めに、ブログ『夜間飛行』の「暗号の手紙 II」の項で以下のように紹介した。
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3.『ミステリー作家漱石の謎を解く』古山和男著(帝京新書2024)副題「百年計画で斃すべき敵の正体」

古山氏の新しい本。こちらは夏目漱石の小説の裏を探る内容。本のカバー表紙にある紹介文は次の通り。

(引用開始)

漱石の謎「文学の形式はF+f」「敵を百年計画で斃す」の意味は何か。
日露戦争の戦死者、霊が現れる能楽の夢幻能に手がかりが。
『草枕』の那美も『三四郎』の美彌子も、亡霊の「迷女(マドンナ)」だった!!

(引用終了)

漱石の『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』、『草枕』や『三四郎』をこのような視点で読んだことはなかった。ベートーヴェンの話同様興味深い内容。
――――――――――――――――――――――

この本を読んだあと、私は以前読んだ『森鷗外の「帝都地図」』秋葉俊著(洋泉社2011)のことを思い起こし好奇心を抱いた。古山氏の本が夏目漱石小説『三四郎』他の裏を探る内容であるとすれば、秋葉氏の本は、森鴎外小説『青年』の裏を探る本だったからである。ここではその辺りのことを書いてみたい。

 古山氏の『ミステリー作家漱石の謎を解く』は、夏目漱石の小説『吾輩ハ猫デアル』、『趣味の遺伝』、『琴のそら音』、『坊ちゃん』、『草枕』、『虞美人草』、『三四郎』などについて論じたもので、それぞれの作品の裏の意図を探る内容となっている。古山氏の考える漱石の裏の意図について同書の「はじめに」から引用しよう。

(引用開始)

 漱石は明治四十(一九〇七)年に刊行した『文学論』の本文を「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す」と書き始めている。(F+f)とは、表の虚構の筋である「F」の裏に、隠された執筆の目的である真意の「f」が隠されているという意味である。そのせいで彼の小説はミステリーに見えるのである。
 漱石の小説が謎に満ちてミステリアスであるのは、表の徘徊(F)を隠れ蓑にして明治の強権支配体制にとって不都合で危険な社会批判や政治や宗教への異議申し立て(+f)をする構造になっているからである。このような手法が取られているのは、漱石が「小説(ロマンス)」と呼ばれた西洋文学と、本歌取りや地口や駄洒落などの当てこすりによって本音を巧妙洒脱に世に伝える江戸の反骨風刺文学の二つの伝統を受け継ぐ文士だからである。(中略)
 漱石の主要な作品を解読するには、徘徊の物語のあちこちに仕掛けられた謎を解き明かす仮説の鍵が必要となる。幸いなことに、この仮説にはどの作品にも有効なマスターキーがある。これを使うことで、漱石の小説のミステリーの大半は解消する。
 本書では、その仮説の第一の鍵に能楽それも「夢幻能」に出現する亡霊のシテを求め、第二の鍵には日露戦争の戦死者、それも旅順口攻囲戦の犠牲者を想定することにする。
 夢幻能とは、非業の死を遂げて冥界に行けず彷徨する亡霊がシテとしてこの世に現れて、諸国一見の僧などのワキに怨念や妄執苦しみを訴える能楽である。
 漱石の小説のヒロイン、あるいは主人公の多くはこの怨霊のシテとして現れ、その正体は日露戦争で無残に命を落とした日本軍の将兵の魂魄である。彼らは当然ながら、日露戦争の無謀な作戦で数知れぬ若者を殺した責任者を糾弾し、明治の藩閥軍国の政治体制を批判するのである。
 この仮説に拠って、「夢幻能」の形式として最も完成した『三四郎』を中心に漱石のミステリー諸小説の概要を読み解いてゆこう。この試行の過程で、漱石自身のミステリー、三十八歳になった明治三十八年に、なぜ教職を全て辞して猛烈に小説を書き始めたのかという謎も解けるはずである。

(引用終了)
<同書 4−7ページ(フリガナ省略)>

 『三四郎』は昔学生の頃に読んだきりで、覚えていることといえば、列車の中で三四郎が廣田老人から日本は「亡びるね」と言われたこと、美彌子(マドンナ)が繰り返す「ストレイシープ(迷羊)」という語のことぐらいだが、古山氏によると、「廣田老人」の正体は乃木希典、「美彌子」は旅順で死んだ兵士の亡霊、「ストレイシープ」とは行方不明の兵士たち、であるという。詳細は同書をお読みいただきたいが、古山氏は、『三四郎』は明治の藩閥軍国の政治体制を批判する夢幻能小説の集大成であると結論付けておられる。

 さて、そうした『三四郎』と鷗外の『青年』にはどのような「裏」のつながりがあるというのか。『森鷗外の「帝都地図」』秋葉俊著(洋泉社)について紹介しよう。副題は「隠された地下網の秘密」。まず本帯表紙の文章を引用する。

(引用開始)

森鷗外が残した帝都東京の地図に東京の地下の謎が隠されていた!?
文学者にして陸軍軍医でもあった森鴎外がなぜ地図を作ったのか?
なぜその地図にあるはずもない地名や不可思議なラインが引かれているのか?
いま、東京の地下の秘密が明らかになる!
特別付録:森鷗外原案「東京方眼図」

(引用終了)

本書の章立ては次の通り。

序章  鷗外コード
第1章 鷗外の地図が見つかった!
第2章 時計型の水路
第3章 ヤン・ヨーステンと江戸の上水
第4章 江戸城建設にまつわる謎に迫る
第5章 江戸の地下の秘密を解く
第6章 開国から明治新政府へ
第7章 こうして地下は秘密となった
第8章 鷗外の大いなる挑戦
第9章 『青年』を読み解く

森鷗外は明治四十二(一九〇九)年に「東京方眼図」というものを発表した。この地図は通常の地図とは文字や記号、線などが大きく異なっている。秋葉氏は序章で次のように書いておられる。

(引用開始)

 すなわち、この地図は特別な目的のために作られている、と考えられるのである。かつてレオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」などの残した暗号が“ダ・ヴィンチ・コード”なら、この地図の多くの謎は“鷗外コード”と呼べるのではないだろうか。本書は、そのコードを解き明かそうというものである。
 本書付録としてカラーの「東京方眼図」がある。鷗外がわざわざカラーで印刷していることから、赤い色にテーマがあると想像できる。道路の上に延びている赤い筋は、当時開通したばかりの路面電車、のちの都電のルートである。筋の途中にある赤丸は、都電の停留所があったところだ。ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。
 都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外堀の中には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。東京には戦前の早い時期から地下鉄が走っていたのである。
  つまり、この地図は東京の地下を描くという、特別な目的のために作られていた。それは当然のことながら、“公式の歴史”とは異なっているが、本書はかつて江戸という都市がどのように築かれ、明治時代にその地下がどう改造され、また、鷗外がそれにどうかかわっていてなぜ、鷗外がこのような地図を作るに至ったかということを、歴史上の文書、資料、法律などから解明しようというものである。

(引用終了)
<同書8ページ(フリガナ省略)>

 秋葉氏は章立てにある通り、江戸の地下の歴史をくわしく辿り、それを明治新政府がどのように引き継いだのかを探ってゆく。そして森鴎外が独自の「東京方眼図」を発表したのは、鷗外の医学専門分野が「公衆衛生」であったこと、都市の公衆衛生には下水道整備が欠かせないこと、当時の明治政府は徳川幕府から引き継いだ江戸の地下構造を下水道整備に活用せず秘密裏に軍事目的に利用しようとしていること、そのために軍記保護法と要塞地帯法という法律を制定したことなどから、その不合理を国民に法律に触れない範囲でどうにか知らせようとしたのだと推察する。そしてそれを読み解くヒントを小説『青年』の中にちりばめた。秋葉氏は、

(引用開始)

 鷗外の『東京方眼図』が東京の地下を描いたものだとしても、それを読み解くのは簡単なことではない。ただ、鷗外は謎の地図を発表しただけで、どこにもその読み方を残さなかったかというと、そんなことはないようだ。『東京方眼図』の翌年に出版された長編小説『青年』に、その鍵が隠されている、と私は思う。(中略)これを読むと、公衆衛生の専門家・森林太郎から文豪・森鴎外と名を変えてはいるが、鷗外の“大いなる挑戦”は続いていたことを知ることが出来る。

(引用終了)
<同書200−204ページより>

と書き、『青年』の各所にある「東京方眼図」との繋がりを提示する。詳細は同書をお読みいただきたいが、秋葉氏はこの小説が「東京方眼図」の読み方を示すことで明治政府を批判するものだと考えておられる。そもそも小説の書き出しが、

(引用開始)

 小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方面図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行きの電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。

(引用終了)
<同書204ページにある引用>

というようなものである。

 漱石の『三四郎』と鷗外の『青年』は、ともに青春教養小説の体(てい)をとっており、『三四郎』が朝日新聞に連載されたのが明治四十一年(一九〇八)、森鷗外が『青年』を雑誌「スバル」に連載し始めたのは明治四十三年(一九一〇)である。『青年』新潮文庫版の解説で高橋義孝氏は「こういう小説を書くことを思い立った鷗外の頭の片隅には、ひっとすると、二年以前(明治四十一年)に発表された夏目漱石の『三四郎』の影がちらついていたのかもしれない」と述べている。高橋氏の言う「こういう小説」とは共に青春教養小説であることを指しているようだが、『三四郎』と『青年』には、共に「明治の藩閥軍国の政治体制を批判する小説」という裏の繋がりがあるのではないか、私が好奇心を抱いたのはそこのところである。

 ここで関連する事項を時系列に並べてみよう。

文久02年(1862):森林太郎(鷗外)石見国津和野にて誕生
慶応03年(1867):夏目金之助(漱石)武蔵国江戸牛込にて誕生
明治01年(1868):明治政府成立
明治17年(1884):鷗外(22歳)ドイツへ留学
明治21年(1888):鷗外(26歳)帰国
明治23年(1890):鷗外(28歳)『舞姫』発表
明治27年(1894):日清戦争勃発
明治28年(1895):日清戦争終結
明治32年(1899):「軍機保護法」「要塞地帯法」施行
明治33年(1900):漱石(33歳)イギリスへ留学
明治36年(1903):漱石(36歳)帰国
明治37年(1904):日露戦争勃発、鷗外軍医として戦地へ
明治38年(1905):漱石(38歳)『吾輩ハ猫デアル』連載開始
明治38年(1905):日露戦争終結
明治39年(1906):鷗外(44歳)帰国
明治39年(1906):漱石(38歳)『坊ちゃん』、『草枕』発表
明治40年(1907):漱石(40歳)朝日新聞社へ
明治41年(1908):漱石(41歳)『三四郎』連載開始
明治42年(1909):鷗外(47歳)『東京方眼図』発表
明治43年(1910):鷗外(48歳)『青年』連載開始
大正05年(1916):漱石(49歳)没
大正11年(1922):鷗外(60歳)没

鷗外、漱石とも明治政府成立前(江戸時代)に誕生、鷗外はドイツ留学を経て軍医となり『舞姫』を発表、漱石はイギリス留学を経て教職につき『吾輩ハ猫デアル』他を発表、その後新聞社の所属となり作家に専念した。

 鷗外、漱石とも欧州で西洋近代社会を体験して帰国した。二人は欧州で西洋近代の諸価値、個の自立、機会平等、因習打破、合理主義、言論の自由、民主政治といったものに触れた。しかし、日本では明治政府が藩閥色を強め軍国化を進めていく。「軍機保護法」「要塞地帯法」他によって言論の自由も失われていく。国民の間でも個の自立、機会平等といった諸価値の咀嚼は不十分。そういった状況に二人は共に義憤を抱いていたと思う。

 漱石の『三四郎』は日露戦争終結三年後に連載が開始され、その翌年に鷗外が『東京方眼図』を発表、さらにその次の年に『青年』の連載が開始された。これらの推移をみると、『三四郎』と『青年』には、確かに「明治政府批判」という裏の繋がりがあるように思える。もう一度『三四郎』と『青年』を読みなおしてみたくなった。皆さんはいかがだろう。
「百花深処」 <「三四郎」と「青年」>(2026年01月13日公開) |目次コメント(0)

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