永井壮吉(ペンネーム永井荷風)については、これまでブログ「夜間飛行」の方で、
「
荷風を読む」(8/28/2017)
「
荷風を読む II」(4/30/2021)
「
荷風を読む III」(5/28/2021)
「
荷風を読む IV」(2/20/2024)
と書き綴ってきた。「荷風を読む」では、持田叙子さんの「荷風はまじめに自分の文学と人生を合致させようとした」という言葉と、その人生が「生の美しさ、楽しさを愛し、戦いの虚無を笑う」ものであったという評価を引用し、「荷風を読む II」では、多田蔵人氏の「複数の確からしい物語によって、正しい言葉がありえない場所の輪郭を描くこと」という荷風の理論を紹介し、荷風が文学と合致させようとした人生は、持田さんのいう「生の美しさと楽しさを愛する人生」と、多田氏のいう「正しい言葉があり得ない場所」を生きる人生という二面性を持っていたことを述べた。「荷風を読む III」では、明治・大正・昭和を生きた荷風が、「近世」と「近代」の結節点に立つ人物として重要だと思うと書いた。「荷風を読む IV」では「女性党作家」としての荷風をみた。そして荷風の文学と合致させようとした人生、女性の自立を支援する「女性党作家」としての姿勢は、日本の疑似近代への抵抗の表出であったと論じた。この項では、永井壮吉の抵抗について、そのありかを戦前・戦中・戦後に分けて整理してみたい。
その前に関連する年譜を記載しておこう。
明治12年(1879):12月、内務官僚の長男として誕生
明治27年(1894):15歳、日清戦争起こる
明治30年(1897):18歳、転職した父の赴任地上海に滞在
明治31年(1898):19歳、作家広津柳浪に入門
明治32年(1899):20歳、落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となる
明治33年(1900):21歳、歌舞伎座の作者福地桜痴の弟子となる
明治34年(1901):22歳、暁星でフランス語を学ぶ、エミール・ゾラに心酔
明治35年(1902):23歳、処女作『野心』、『地獄の花』を出版
明治36年(1903):24歳、森鴎外に初めて会う、『夢の女』出版、9月に渡米
明治37年(1904):25歳、日露戦争始まる
明治38年(1905):26歳、ニューヨークに滞在
明治40年(1907):28歳、フランス・リヨンに滞在
明治41年(1908):29歳、帰国、『あめりか物語』刊行
明治42年(1909):30歳、『深川の唄』『すみだ川』などを発表
明治43年(1910):31歳、慶應義塾大学文学部教授就任
明治44年(1911):32歳、1月大逆事件
明治45年(1912):33歳、『新橋夜話』刊行、斎藤ヨネと結婚
大正02年(1913):34歳、父久一郎死去、ヨネを離別
大正03年(1914):35歳、八重次と結婚、『日和下駄』を連載
大正04年(1915)、36歳、八重次と離婚
大正05年(1916):37歳、慶應義塾大学文学部教授辞任、『腕くらべ』発表
大正06年(1917):38歳、『断腸亭日乗』執筆開始
大正09年(1920):41歳、『江戸芸術論』、『おかめ笹』刊行
大正09年(1920):41歳、5月麻布の洋館(偏奇館)に転居
大正11年(1922):43歳、森鴎外死去、葬儀に参列
大正15年(1926):47歳、銀座カフェ・タイガーに通う、成島柳北日誌を写す
昭和02年(1927):48歳、関根歌を身請けする
昭和06年(1931):52歳、『つゆのあとさき』発表、9月、満州事変
昭和07年(1932):53歳、満州国出来る
昭和11年(1936):57歳、二・二六事件、『墨東綺譚』を執筆、翌年発表
昭和12年(1937):58歳、母恒死去、弟と絶縁状態のため葬儀に参列せず
昭和14年(1939):60歳、『下谷叢話』(改訂版)を出版
昭和16年(1941):62歳、戦争開始の日に『浮沈』執筆開始
昭和19年(1944):65歳、『来訪者』執筆
昭和20年(1945):66歳、空襲により偏奇館炎上、岡山で終戦を迎える
昭和21年(1946):67歳、市川市菅野に住む、戦時中の作品を一挙に発表
昭和23年(1948):69歳、浅草通い始める
昭和25年(1950):71歳、『葛飾土産』を刊行
昭和27年(1952):73歳、文化勲章を受章
昭和32年(1956):77歳、市川市八幡町に転居
昭和34年(1959):79歳、八幡町の自宅で死去
以上、年譜は主に雑誌「東京人」(2017年10月号)に拠った。
<戦前>
〇薩長政府への抵抗
永井は明治12年生まれ。父親は内務官僚だが母親は漢学者鷲津綺堂の娘だった。母方から徳川日本の遺風を受け継いだ永井は、富国強兵を唱える薩長政権下での立身出世は望まず、落語や歌舞伎といった江戸文化に耽溺した。その後渡米するが銀行勤務を強いる父親の意向に逆らってパリに遊び、帰国して一時期大学の教授職を得るがそれも数年で辞めてしまう。日記などで徳川日本を懐かしみ、軍国主義に傾く政府を批判した。
〇疑似近代への抵抗
若くしてエミール・ゾラに心酔、その後長く西洋に滞在し、西洋近代の価値観を充分咀嚼した永井は、個の自立を成し得ていない日本を強く批判。とくに虐げられていた女性の自立を応援した。
〇家族制度への抵抗
明治政府の家族制度は、徳川時代のものを継承したともいえるけれど大きな違いがあった。それは、徳川時代の藩による統治、士農工商制度とは異なり、全国民を一挙に天皇を頂点とした支配構造に組み込むものだった。そして家長は率先してその構造に奉仕することを求められた。永井はこの制度に身をもって抵抗、一時父の意向に沿って結婚もしたが父の死後すぐに離婚、家を出て新橋の芸者と結婚、その後母親の葬儀にも参列しなかった。
<戦中>
〇軍国主義への抵抗
戦中の永井は、一億玉砕へと進む軍と政府に無言で抵抗、女性党作家としての代表作『浮沈』や、正しい言葉があり得ない場所を描く『来訪者』などを執筆。空襲により偏奇館が炎上すると疎開、終戦は岡山で迎えた。
<戦後>
〇米国支配への抵抗
敗戦により軍国主義は表舞台から消えたが、そのかわりGHQと米国による支配が始まった。永井はそれらの新しい風潮に迎合せず、孤塁を守って江戸の風情を残す市川に移住した。戦前・戦中の作品は高く評価されたが、ほとんど表舞台に出ることはなかった。浅草に通い踊子たちと戯れ、失われた徳川日本の遺風を懐かしむ『葛飾土産』などを執筆した。
以上、永井壮吉の抵抗のありかを、戦前・戦中・戦後に分けて整理してみたが、思えばこのような人生を彼がつらぬくことが出来たのは、食うに困らぬ親の遺産があったからでもあり、それは市井の人間にはできないことだ。しかし永井はそういう立場を弁えた上で自分の信念を変えず、死ぬまで時代への抵抗を続けた。豊かな作品群を残した彼は、十分に<
宿命の完成>を成したのではないかと思う。