前回<
宿命の完成>の項で、辻邦生の『嵯峨野明月記』にある「まさしくこの生は太虚にはじまり太虚に終る。しかしその故に太陽や青空や花々の美しさが生命をとり戻すのだ。(中略)私は太虚の豊かな死滅と蘇生のなかにあって、その宿命を完成させる以外にどんな仕事が残されていようか」という(光悦の声として書かれた)言葉を紹介したが、ここでは平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の<宿命の完成>について考えてみたい。
私は前項の終わりに、『嵯峨野明月記』の執筆時期として、
(引用開始)
『嵯峨野明月記』は第一部と第二部とに分かれている。没後20年を記念して企画・出版された『辻邦生永遠のアルカディアへ』学習院大学史料館編(中央公論新社、2019年)によると、第一部は1968年9月雑誌「新潮」に掲載され、第二部は同誌に1971年3月から6月まで連載、単行本は同年に新潮社から出版された。
(引用終了)
と記した。それは今回へ話を続けるために敢て付け加えたもので、留意していただきたいのは、この第一部と第二部との間に、平岡の自決(1970年11月)があったということである。光悦の言葉は『嵯峨野明月記』の最後の方(第二部の終わり)にあるから、辻邦生は平岡の自決を経た後、この言葉を自らの小説に書いたことになる。
辻邦生は平岡の自決に強い衝撃を受けた一人だった。彼は1971年2月号の雑誌「新潮」に「悲劇の終末」と題した文章を寄せている。その中で辻は、当時勤めていた立教大学で講義中に三島自決のニュースを知り、顔面に激しい打撃をくらったように感じながら辛うじてそれを堪えたあと、何とも言いようのない暗い、いやな気分を持て余しながら帰宅したと述べる。そして後日彼は『豊饒の海』の遺稿部分を読む。
(引用開始)
私は『豊饒も海』の遺稿の部分を読み、そのリズムになんの乱れもないのに打たれた。とても死を前にした人の文章とは思えなかった。ここには空疎な道具立てとは違った、端正な苦悩の趣があり、それはかって『煙草』を読み『仮面の告白』を読んだ頃感じた不思議にひたむきな文学的味わいがあった。そしてこの作品の終わりに書かれた日附けがその事件の当日であるということが、頑強に私の理解を拒んだ。これと事件との間には、まったく異質のものが支配していて、私は、それを同一人の同一日の行動と考えることが出来なかった。(中略)
三島由紀夫の様式への意図のなかには、たしかに運命的拘束へ身を挺することによって、それを生み出そうとする姿勢が読みとれる。そして原理的に、様式のない芸術は存在しえず、様式はかかる拘束と偏愛から生まれる以上、芸術的様式支えるために、ある拘束のなかに没入してゆく芸術家がいても、何の不思議もない。
問題は、単なるかかる行為のみでは、真の運命的拘束が生まれない、という点である。もし三島由紀夫の最後の道具立てに、どこか性急な整合性を感じるとしたら、それは、かかる運命への拘束を願いながら、それがあくまで人為的なものであったためではないだろうか。そしてまた、そこには奇妙な押しつけががましさと、スペクタクルへのし上がろうとする意図が加わり、そのため、現代の批判になりうるはずの行為が、本質的に、その現代文明の否定部分との同調において行われたという印象を拭いがたく持つのではないか。
しかしそのことはむろん三島由紀夫の悲劇性を消すものではない。なぜならその悲劇性は、白昼のあの残酷までに明るい、一片の神秘さも入り込み得ぬ物質性のなかにおいて、ついに、その一切を賭けた死が、それゆえに悲劇たりえなかったという逆説のなかにあるからであり、それは広く不気味に私たち文明の終末の夕焼空を赤く照射しているような気配がなくもないからである。
(引用終了)
<辻邦生全集第18巻 253−259ページより>
ここで辻は、平岡の自決が人為的な空疎な道具立てのなかで行われたとし、その結末を惜しんでいる。
辻邦生は、三島が自らの(芸術家としての)宿命の完成を途中で放棄したと思ったのだろう。この文章を書いたすぐ後に『嵯峨野明月記』第二部の連載が開始されているわけだから、その最後に光悦の声として「人には各々の宿命を完成させる以外にどのような仕事があるのか」と書いたとき、彼の意識の中に三島の自決があったに違いない。辻はその後晩年の『西行花伝』(1995年)まで、多くの小説で<芸術による魂の救済>(『辻邦生永遠のアルカディアへ』「はじめに」より)という主題を追求し、73歳で病によりその生涯を終えた。
辻は、平岡の宿命も芸術の側にあり、その完成は(命を捨てる事ではなく)最高の作品を残すことだと考えた。私も同感だ。しかし、平岡自身はそう思っていなかった。平岡は、作家としてのライフワークは『豊饒の海』で終わり、最後に行動家としての宿命が待っていると考えていた。<
平岡公威の冒険 8>で私はそれが思い違いであったと書いたけれど、主観的には平岡は(自決によって)自分の宿命を完成させようとしたのだと思う。
前項で書いたように、<宿命の完成>とはその人の「社会貢献の最大限界値の達成」を指す。多くの人にとって、一生のうちで宿命の完成にまで至るのはなかなか難しい。途中でやる気を失ったり、迷路にはまったり、資金が続かなかったり、身体を壊したり、果ては命をなくしたりしてしまうからだ。そもそも自分の宿命を自覚できずに生涯を終える人も多いだろう。勿論、完成に至らずともその人なりの貢献は必ずある。完成できなかったからといって、その人の人生が失敗だったわけではない。平岡は途中で迷路にはまり芸術家としての宿命は完成に至らなかったけれど、その人生は豊かなものであったし、その社会貢献も大きかった。
ここで、平岡が考えたライフワークとしての『豊饒の海』について若干考察を加えておきたい。<平岡公威の冒険 8>では、第四巻(『天人五衰』)のラストの不条理について、井上隆史氏の評論に寄り添いながら、門跡聡子の言葉は『豊饒の海』ストーリー全体の否定であるとしたけれど、最近目を通した『三島由紀夫の研究S』(鼎書房)に、編集者の一人佐藤英明氏の文章として、
(引用開始)
門跡聡子の発言は唯識の教義に基づくことばで、本田の「熱心」に何ごとかを察した門跡は、本多に対する「待機説法」で応じたのである。(中略)本多の目論見を裏切る形で、門跡は、「悪」の認識者である本多をも済度に導いたと見ることができそうである。
(引用終了)
<同書 67−68ページ>
という箇所があった。対機説法とは、相手の状況に応じて教えを説く仏教の用語である。ここで佐藤氏は、主人公の本多は第四巻に至り「認識の地獄を抱えた世界破壊者」として造形され、門跡聡子はストーリー全体を否定したのではなく、「それも心心(こころごころ)ですさかい」という言葉によってむしろ本多を救済したのだとする。平岡は最後に本多を否定、「この世界は存在しなければならない」という答えによって『豊饒の海』を擱筆し、芸術家としての自己を完結させたというわけだ。
興味深い評論ではあるが、もし平岡がこのように意図したとしても、『豊饒の海』の第三巻まで(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』)理性的な認識者として造形されてきた本多繁邦が、第四部に至って「認識の地獄を抱えた世界破壊者」となること自体、それまでのストーリーからの離反であり、『豊饒の海』全体の中途半端感は否めない。
確かに、第四巻の本多の造形は「認識の地獄を抱えた世界破壊者」に近づいているけれど、それは平岡が、認識者としての「脳の時間」と、実際に生きる「身体の時間」とを同一時象に置いてしまい、老いというものを極端に恐れた結果、年老いてゆく本多を肯定的に描けなかっただけの話だと思う。
私も辻邦生同様、平岡の最後を残念に思う。ただし、私はそれを辻が感じたような「何とも言いようのない暗い、いやな気分」で思うのではなく、平岡の「旺盛な冒険心」が完成を放棄させたのだ、と寧ろ肯定的に捉えたいと考えている。また、辻が見落としていた点として、平岡が憂慮した「独立国家ではない状態の日本」という戦後の現実がある。この課題はいまだ我々の宿題として重くのしかかっている。
ところで、<宿命の完成>の項で引用した、光悦の「太虚の豊かな死滅と蘇生のなかにある自分」についての文章、
(引用開始)
私は眼をあげて庭を見、木立を見、木立の奥の築地塀を見、そのうえに拡がる洛外の空を見た。それは、刻々にすぎさっているゆえに、私の眼には、異様に美しいものと映った。それは何の変哲もない庭の草であり、土の色であり、木立であった。
(引用終了)
という箇所は、平岡の『豊饒の海』のラスト、
(引用開始)
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。(中略)そして裏山の頂の青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしている。
これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。
(引用終了)
<『天人五衰』(新潮文庫)302ページ(フリガナ省略)>
という箇所と重なって見える。だがそのあと光悦は「書家としての道を歩こうと決意」し、本多は「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」と愕然とする。この好対照は面白い。<平岡公威の冒険 8>で井上氏が月修寺の庭について、私たちも「まさにこのような場所から歩み始めなければならない」と記したのと同様、辻邦生も『嵯峨野明月記』第二部のなかで、月修寺の庭の場面の先を、ポジティブに描いておきたかったのだろうか。