遅ればせながら北欧ミステリー『ミレニアム』を全巻(1〜6)読んだ。1〜3(オリジナル)の著者はスティーグ・ラーソン、4〜6の著者はダヴィド・ラーゲルクランツ。どちらも面白かった。ラーゲルクランツはラーソンの死後、出版社に請われて4〜6を執筆した。出版の時系列を以下に纏めると、
『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』
2005年スウェーデン語版、2008年日本語版
『ミレニアム2 火と戯れる女』
2006年スウェーデン語版、2009年日本語版
『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』
2007年スウェーデン語版、2009年日本語版
『ミレニアム4 蜘蛛の巣を払う女』
2015年スウェーデン語版、2015年日本語版
『ミレニアム5 復讐の炎を吐く女』
2017年スウェーデン語版、2017年日本語版
『ミレニアム6 死すべき女』
2019年スウェーデン語版、2019年日本語版
ということで、『ミレニアム3』と『ミレニアム4』の間に8年(日本語版は6年)のブランクはあるが、このシリーズは2005年からコロナ禍が始まる2019年末前まで書き継がれてきた(日本語版は早川書房)。
まずこの作品の魅力について、『ミレニアム1』が(日本で)出たときの丸谷才一氏の新聞書評を一部引用しよう。
(引用開始)
十九世紀の後半、小説が二つに分かれた。知識人向きのものと大衆向きのものとに。イギリスの例を引けばヘンリー・ジェイムスの『ある貴婦人の肖像』とライダー・ハガードの『ソロモン王の洞窟』に。これは困ったことだったので、その中間に、知識人も大衆も読めるものとして探偵小説――たとえばコナン・ドイルのシャーロック・ホームズもの――が生まれた、という説がある。この文学史的展望はいい所を衝いているが、厄介なことに両方の読者層が楽しめる探偵小説はめったにない。ウンベルト・エーコの『ばらの名前』とか、このスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』あたりは稀な例外か。
後者の出現はそれ自体一つの奇譚である。作者は一九五四年生まれのスエーデン人。ストックホルムに出て、極右思想や人種差別に反対する雑誌『EXPO』の編集長となった。そのかたわら『ミレニアム』五部作の執筆をしていたが、第三部が終ったところで出版社に見せた。二〇〇四年十一月、第四部を書き出したころ、第一部『ドラゴン・タトゥーの女』の発売直前に心筋梗塞で死亡。
三部作は大成功で、三年あまりで合計二百九十万部以上を売上げ、第一部、第二部、第三部ともに文学賞を受賞した。第一部は映画化が進行中、第二部〜第三部はテレビ・ドラマが制作される予定。フランス、ドイツ、アメリカはじめ三十カ国以上で翻訳が進められ、フランスでは二百万部を超す勢いの由。わたしも夢中になって読んだ。この手のものの書き方を心得切った筆の運びだし、中身も充実している。とにかくおもしろい。
『ばらの名前』の魅力の第一は、文科系の学者としての教養による知識であったが、『ドラゴン・タトゥーの女』の場合は社会派推理小説的な現代スウェーデンの告発である。しかしこの長編小説でも、作者の職業的な経験がものを言っている。ジャーナリズムの内幕が巧みに描かれていて、意外性に富む物語に頑丈なリアリティを裏打ちするのだ。(以下略)
(引用終了)
<毎日新聞 2/1/2009(フリガナ省略)>
主人公は雑誌『ミレニアム』の共同経営者兼編集者ミカエル・ブルムクヴィストと、背中にドラゴン・タトゥーのあるリスベット・サランデルという女性。とくにリスベットは鮮烈なキャラクターだ。知能が高く運動神経にも優れる。警備会社のフリーの調査員であり、コンピュータに強いハッカーでもある。非現実的すぎて好き嫌いが分かれるだろうが、ラーソンはこういうキャラクターでなければ自分の描きたかった世界を支えきれないと考えたのだろう。私はこの男性性に偏ったヒロインが気に入っている。
『ミレニアム1』では、二人が協力してある富豪老人の親族(失踪した娘)を探し出す。『ミレニアム2』では、ロシアのスパイだったリスベットの父親とリスベットとの葛藤が描かれ、『ミレニアム3』では、父親を匿ったスウェーデン公安警察とリスベットとの法廷闘争が中心。『ミレニアム4』ではアメリカのNSA(国家安全保障局)も絡む大規模なサイバー犯罪へと話が進み、『ミレニアム5』では、リスベットの妹カーラが悪役として登場。リスベット一家の暗い過去が語られる。
『ミレニアム1』でリスベットに命を助けられたミカエルは、その後彼女をサポートし続ける。リスベットはミカエルに対して、好意と反発の混ざり合った複雑な感情を抱いている。どの話にも『ミレニアム』という雑誌の取材事件が関係し、それがミステリーに広がりを与えている。そして最終巻『ミレニアム6』は、カーラとリスベットの最後の闘いの場となる。
シリーズに登場する脇役たちも記憶に残る。『ミレニアム』の共同経営者エリカ・ベルジュ、リスベットの元後見人ホルゲル・パルムグレン、警備会社社長ドラガン・アルマンスキー、ストックホルム県警犯罪捜査部警部ヤン・ブブランスキー、ミカエルの妹で弁護士のアニカ・ジャンニーニなどなど。
このシリーズには、西欧社会が抱える性暴力、LGBT、移民差別、腐敗政治、デジタル・AI活用、グローバリズムといった「
後期近代」(ブログ『夜間飛行』)の諸相が網羅されていて、謎解きの面白さや主人公たちの魅力だけではなく、コロナ禍以降の西欧社会を考えるためのテキストとしても読むことができる。著者の政治思想までは分からないが守備範囲の広い社会派ミステリーだ。
『ミレニアム1〜3』と『ミレニアム4〜6』の作者が違うというのも異色・奇譚である。後者の著者ダヴィド・ラーゲルクランツもスウェーデンのジャーナリスト。彼は8年間のブランクを感じさせずにテーマをさらに深く追及し、期待されたミッションをクリアしたと思う。
死亡したスティーグ・ラーソンについては、長く彼と生活を共にしていた女性が書いた本がある。『ミレニアムと私』エヴァ・ガブリエルソン/マリー=フランソワーズ・コロンバニ共著(早川書房、2011年11月出版)がそれで私も一読した。オリジナルは同年1月フランスで出版。本の帯には、
(引用開始)
全世界6000万部驚異のミステリ
『ミレニアム』三部作の著者
スティーグ・ラーソンの波瀾の生涯
『ミレニアム』創作の裏話、スティーグが急死した当日の様子、莫大な遺産をめぐる争い、そして『ミレニアム』第四部について。
32年間スティーグと生活を共にした女性、
エヴァ・ガブリエルソンが今、すべてを明かす
(引用終了)
とある。スティーグが書きかけていた『ミレニアム』第四部の内容は、ゲルクランツが書いたものには反映されていないという。
この「莫大な遺産をめぐる争い」とはなにか。エヴァは32年間スティーグ・ラーソンと生活を共にしていたにも拘らず、正式に結婚していなかったためにスティーグの遺産相続に与れなかった。相続したのはラーソンの弟と父親で、『ミレニアム1〜3』の版権も彼らが保持することになった。エヴァは彼らと和解することなく、書きかけだった『ミレニアム』第四部は、雑誌『EXPO』の手元に残りそのままお蔵入りとなってしまった。弟と父親側の話が聞けていないので争いの分(ぶ)がどちらにあるのかわからないが、少なくともこの本が日本語で読めたのは良かった。
そういった中、『ミレニアム1〜3』の出版社は(弟と父親の同意を得た上で)続編を全く別の作家(ダヴィド・ラーゲルクランツ)に依頼した。争いの分がどちらにあるかは別にして、上述したように、ラーゲルクランツは期待されたミッションをクリアしたと思う。渦中の栗を拾った彼は毀誉褒貶に包まれた。
『ミレニアム』シリーズを私は早川書房の文庫版で読んだ。『ミレニアム6』上巻(2021年2月発行)の帯に「全世界1億部突破!」の文字が躍っていた。しかし著者のラーゲルクランツは、4〜6のあと『ミレニアム』執筆から身を引くようだ。今後のリスベットとミカエルはどうなるのか。『ミレニアム6』下巻の解説(書評家・酒井貞道氏)から引用したい。
(引用開始)
二〇一九年に刊行された本書で、リスベットの物語は落着した。その翌年、二〇二〇年に、世界は疫病COVID・19に覆われ、マネー・ゲームは一層の興隆を遂げ、世界中で情勢は一変した。シャーロック・ホームズが第一次世界大戦を、ジェームズ・ボンドが冷戦終結を、それぞれ乗り越えて架空人物としての命脈を保ったように、リスベット・サランデルとミカエル・ブルムクヴィストもまた、このアフター・コロナを生き延びるべきなのだ。それこそが、創造主の死を克服した、選ばれし架空の人物(キャラクター)の義務である。そして、その履行が、二人目の作者が手を引いた程度のことで潰えてよいのか?
だからこそ、期待と激励を籠めて、こう記す。
また会おう、リスベット・サランデル。
(引用終了)
<同書 330−331ページより>
私も酒井氏に同感だ。「後期近代」の悪と戦い続けるリスベットとミカエルを読んでみたい。それと、いつか公表されることがあれば、ラーソンが書きかけた『ミレニアム』第四部も読んでみたい。