今年(2022年)2月に石原慎太郎が死去した。この自己中心的な作家の内部に蓄えられたロマンチシズムの源泉と、その表出について論じてみたい。昨日この『百花深処』で、<江頭淳夫の迷走>と題して江頭淳夫(ペンネーム江藤淳)の生涯を辿ったが、江頭と石原は同じ昭和07年生まれ、かつ湘南中学校の同窓生(学年は石原が一つ上)である。江頭は石原のことを、都知事当選後に新聞に寄せた文の中で、「無意識過剰」と評したことがある。TVの都知事会見に出てくる石原はいつも苛立った様子で暴言を繰り返していた。自己中心的で無意識過剰な男の焦燥は、何処から来るものだったのだろうか。
私の書斎の本棚に、水で多少皺のよった『星と舵』石原慎太郎著(新潮文庫、初版1969年、解説三島由紀夫)がある。フロリダに駐在していた時(1982年から1988年までの六年間)、休日などにコンドミニアムのプールサイドで読んだ一冊。主人公はトランスパック・レースに参加したヨット乗りで、石原自身の体験を踏まえた話になっている。ヨットレースが終わり帰国した後、主人公は恋人の久子という女性と会おうとするが、久子は彼が帰国する前に(レースゴールのハワイで)彼宛の手紙を残して去ってしまう。小説は最後、帰途に就く船の中で主人公が「久子、君が今どこにいようと、僕はやっぱりこうして、今、君に向かって還っていくのだ。僕はそう信じる、信じなくて、どうしてこれからの航海が在るというのだ」と呟くところで終わる。石原の死後同書を読み返したが、「久子」が何を象徴していたのか、解る気がしてきた。
江頭のとき同様、まず本項に関連する石原の年譜を記しておこう。
昭和07年(1932):09月、海運会社社員の長男として誕生
昭和11年(1936):03歳、父の転勤に伴い北海道小樽に転居
昭和18年(1943):10歳、父の転勤に伴い神奈川逗子に転居
昭和20年(1945):12歳、神奈川県湘南中学校に入学、敗戦
昭和26年(1951):19歳、父潔死去
昭和27年(1952):19歳、一橋大学法学部入学
昭和30年(1955):23歳、12月石田由美子と結婚
昭和31年(1956):23歳、『太陽の季節』により芥川賞受賞
昭和33年(1958):26歳、『亀裂』刊行
昭和38年(1963):31歳、トランスパック・レースに参加
昭和40年(1965):33歳、『星と舵』刊行
昭和43年(1968):35歳、参議院議員選挙当選・就任
昭和45年(1970):38歳、三島由紀夫自決
昭和47年(1972):40歳、衆議院議員当選・就任
平成01年(1989):56歳、『「NO」と言える日本』(共著)刊行
平成08年(1996):63歳、『弟』刊行
平成11年(1999):66歳、東京都知事当選・就任
平成24年(2012):80歳、東京都知事辞任
令和04年(2022):89歳、2月死去、3月妻由美子死去
令和04年(2022):06月、『「私」という男の生涯』刊行
石原の生涯で気付くことをいくつか書き出してみる。
(1)12歳で敗戦を迎え、多感な十代を米軍占領下に過ごした。
(2)小樽や逗子で育ち、海に親しむ。早くに父を亡くす。
(3)学生時代に文壇デビューしそのまま作家として筆一本で生活。
(4)35歳で政治家となり、作家兼政治家として後半生を生きる。
石原は作家としてデビューすると、戦後日本人のまやかし保守(米軍に阿る形で現状を維持しようとする体制派)に対して、若い価値紊乱者として振舞った。ボクシングに熱中し、映画監督をしたり、南米横断一万キロ・ラリーに参加したり、劇場を運営し、ヨットレースに出たり、不倫を重ねたり。多作な流行作家として金銭的にも潤った。しかし、新しい価値の創造には至らなかった。彼の30代前半まではただ暴れまわっただけで終わる。
石原が求めた新しい価値とは何か。彼は江頭同様、多感な時期を米軍占領下で過ごした。街で米兵に殴られ口惜しい思いをしたこともあるという。19歳で父親を亡くし長男として家族を養う必要があった。弟裕次郎を時に諫める役割も求められた。日本はサンフランシスコ条約締結後も米軍の支配が継続、日本人は経済成長に邁進した。そんな世間を横目で見ながら、彼が求めたのは、戦後日本人の国家統治能力(父性)の不在を埋める、新しい父性の復権、そしてそれによって生まれる筈の新しい日本ではなかったか。「久子、君が今どこにいようと、僕はやっぱりこうして、今、君に向かって還っていくのだ。僕はそう信じる、信じなくて、どうしてこれからの航海が在るというのだ」という「久子」は、彼のそういう新しい日本を象徴していたのだと思う。彼のロマンチズムの源泉は、敗戦した日本の惨めな姿にあった。
30代前半まで暴れまわっただけで終わった石原は、35歳で参議院選挙に出馬する。彼は平岡(ペンネーム三島由紀夫)のような過激な手段は取らなかった。国会議員(のちには都知事)として、新しい父性の復権、そしてそれによって生まれる筈の新しい日本を創る、それが彼の希求したことだった。
政治家になった石原は、彼の理想が、米軍支配下の日本でも実現できると勘違いした。その辺りの事情は江頭の勘違いと同じかもしれない。勿論政治家としての成果もあった。しかし米国に対して“「NO」と言える日本”とは、独立した国家としての日本でなければならない。そういう国家を作るには、言語、歴史の再認識、国家理念の構築、制度設計、人材育成などの膨大な作業を必要とするが、彼にはそのような力量はなかった。
ブログ『夜間飛行』の「
家族類型から見た戦後日本」で書いたように、戦後日本の家族制度は、GHQの政策により、直系家族からから核家族へと変更させられた。それにより戦前にあった長男の権威と権力は制度的に消滅したが、石原が慣れ親しみ、復権させようとした父性は、戦前の直系家族のそれだった。家庭では横暴に振舞い、妻には従順さを求め、外では不倫を重ねた。靖国神社に参拝し、中国を敵視、女性蔑視発言を繰り返した。
『星と舵』の中に、海について主人公が「不滅なるが故に、お前は在りはしないのだ。お前が、今、ここに正しく在るということ、それを与えているのはこの俺なのだ。(中略)俺たちがいなければ、お前は在りはしない」と呟く文章がある(360ページ)。江頭がいう無意識過剰とは、このような自己中心的な考えでは、世界や他者の多様な在り様を意識することができず、判断が独りよがりになってしまうことを危惧した言葉だと思う。行動はできるけれど。
石原が希求した新しい父性の復権、そしてそれによって生まれる筈の新しい日本とは、古臭い家父長的父性と、独りよがりではた迷惑な国でしかなかった。<江頭淳夫の迷走>では、江頭は晩年、自分の保守思想は戦後日本人の国家統治能力(父性)の不在を立て直すほどの底力を持たないことに気付いた、と書いたけれど、石原の場合、最後まで自分の非力に気付かなかったのではないか。『「私」という男の生涯』(幻冬舎、2022年6月20日初版)を読んでそう思う(彼は同書の中で、無意識過剰とは死への意識が希薄だったこと、と自らに都合よく解釈している)。それはそれで幸福な最後ともいえるが、結果石原は、非は常に他者の側にあると考え、いつも苛立って暴言を繰り返した。そんな姿に同情を籠めて、<石原慎太郎の焦燥>という言葉を題に選んだ。