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■オリジナル作品:「百花深処 II」(目次

「百花深処」 <江頭淳夫の迷走>

 昨年(2021年)の冬、遅ればせながら『江藤淳は甦える』平山周吉著(新潮社・2019年)を読み、江頭淳夫(ペンネーム江藤淳)という文芸評論家の生涯を俯瞰することができた。江頭の評論は以前から読んでいたが、これまでは、彼が導き出す結論の多くは、少しづつ的(まと)が外れていると思っていた。勿論首肯できるものもあった。丸谷才一に対するフォニイという評価、石原慎太郎の無意識過剰、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』への高評価など。しかしそうでないものも多かった。

 この『百花深処』では、<平岡公威の冒険>と題して平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の自決を様々な角度から論じているが、江頭は、それについて小林秀雄との対談のなかで、早い老いがきた、もしくは一種の病気でしょう、と否定的に述べたことがある。しかし己が自死する直前の『南洲残影』という本では平岡の自決を、滅亡を知る者の調べ、と肯定的に評価した。なぜ評価が変わったのか。ここではそのことを念頭に、江頭の生涯を辿ってみたい。

 まず、本項に関連する江頭の年譜を記しておこう。

昭和07年(1932):12月、海軍中将の孫として誕生
昭和12年(1937):04歳、母廣子死去
昭和20年(1945):12歳、敗戦
昭和21年(1946):13歳、神奈川県湘南中学校入学
昭和23年(1948):15歳、転居に伴い日比谷高校に転入
昭和27年(1952):19歳、4月サンフランシスコ平和条約発効
昭和28年(1953):20歳、慶應義塾大学文学部入学
昭和30年(1955):22歳、三田文学に『夏目漱石論』発表
昭和32年(1957):24歳、慶應義塾大学卒業、5月三浦慶子と結婚
昭和34年(1959):26歳、『作家は行動する』刊行
昭和36年(1961):28歳、『小林秀雄論』刊行
昭和37年(1962):29歳、渡米(アメリカ・プリンストン大学)
昭和42年(1967):34歳、『成熟と喪失』刊行
昭和45年(1970):37歳、三島由紀夫自決
昭和46年(1971):38歳:東京工業大学助教授就任
昭和49年(1974):41歳、『海舟余波』刊行、「“フォニイ”考」発表
昭和50年(1975):42歳、『漱石とアーサー王傳説』刊行
昭和51年(1976):43歳、『海は甦える(第1・2部)』刊行
昭和54年(1979):46歳、渡米(アメリカ・ウィルソン研究所)
昭和55年(1980):47歳、田中康夫『なんとなく、クリスタル』発表
昭和56年(1981):48歳、編書『占領史録』刊行
昭和59年(1984):51歳、『自由と禁忌』
昭和60年(1985):52歳、『近代以前』刊行
平成01年(1989):56歳、『昭和の文人』刊行
平成08年(1996):63歳、『荷風散策―紅茶のあとさき』刊行
平成10年(1998):65歳、『南洲残影』刊行、11月妻・慶子死去
平成11年(1999):66歳、7月自死

 江頭と私は歳が十三離れているが、年譜を見ると、アメリカに滞在していた時期が(偶然にも)重なっている。江頭の最初のアメリカ・プリンストン滞在は、1962年8月から1964年8月までの二年間。私の少年期のアメリカ・ニューヨーク滞在は、1963年2月から1964年8月までの一年半。ケネディ大統領の暗殺(1963年11月)やビートルズのアメリカ公演(1964年2月)時、二人とも現地に居たわけだ。彼の二回目のウィルソン研究所滞在は、1979年9月から1980年8月までの一年間。私の仕事でのアメリカ赴任は、1979年9月から1992年5月までの十三年間。滞在の長さは違うが渡米時期が一致する。一回目のアメリカ滞在は、日本人もあまり多くなかった時期故、同じ環境に身を置いた者としてとくに親近感を覚える。私の日本及び日本人への考え方は二度の滞米経験が大きく影響しているが、江頭のそれも、二度の滞米経験が大きく影響したことは想像に難くない。

 彼の生涯で気づくことを他にいくつか書き出してみる。

(1)12歳で敗戦を迎え、多感な十代を米軍占領下に過ごした。
(2)海軍中将の孫として生まれ育ち、エリート意識が特に強い。
(3)学生時代に文壇デビューしそのまま評論家として筆一本で生活。
(4)46歳の時に滞米したウィルソン研究所では占領史の研究に没頭。

 エリート意識が強かった江頭の思想は保守的傾向が強い。米軍占領下で多感な時期を過ごした彼は、しかし戦後日本人のまやかし保守(米軍に阿ねる形で現状を維持しようとする体制派)には雷同せず、新たな正統保守の道を切り開こうとした。大学生の時に発表した評論で文壇にデビューし、卒業後すぐに結婚、何処にも就職せず筆一本での生活を選んだことも手伝って、自らの商品価値を高めるためにも、そして体制派に絡めとられないためにも、その評論姿勢はより攻撃的なものとなった。それが戦前から生き残った小林秀雄らに評価され、文壇に足掛かりを得た。日本は、サンフランシスコ平和条約発効後も米軍支配が(日米安保と日米合同会議などによって)継続。そのなかで江頭はベンチャー起業家よろしく奮闘、29歳でロックフェラー財団の招きでアメリカ・プリンストン大学に留学、帰国後、文壇での発言力を強めてゆく。

 文壇での地位を確かなものにした江頭は、ここで、彼の保守思想が、米軍支配下の日本でも通用すると勘違いしたと思われる。米軍支配は世間から隠されていたから、彼にもよく実態が見えなかったのかもしれない。経済高度成長が判断を狂わせたのかもしれない。平岡への当初の評価はその時期のもの。その後江頭は大学助教授となり、博士号を取得、さらに日本藝術院賞などの賞を獲得、生活も安定する。

 江頭が、米軍支配下の日本では、正統保守もなにも通用しないということに気付いたのは、46歳のときウィルソン研究所に滞在し、占領史の研究に没頭した辺りだと思われる。帰国してさらにその認識を深める。しかし彼は自らの地位を危うくする道は選ばなかった。エリート意識が特に強かった江頭は、大学での職を保ったまま、鎌倉の一軒家、軽井沢の別荘生活を維持したまま、なんとか彼の保守思想を、戦後日本に定着させようと努力した。しかし結局それは上手くゆかなかった。

 江頭の保守思想は、儒教や戦前の海軍を評価し、戦後のまやかし保守を否定するものではあるが、米軍による日本の間接支配が齎した日本人の国家統治能力(父性)の不在そのものを立て直すほどの底力はなかった。立て直しには、言語、歴史の再認識から国家理念の構築、制度設計、人材育成など膨大な作業を必要とするが、彼の武器(思想、経済力など)はその為には脆弱すぎた。江頭は最後にはそのことを自覚したと思う。平岡の再評価はその時期のものだ。しかし気付いたときにはもう遅かった。私生活上の問題(女性問題)、妻の死、病苦が重なり、彼は力尽きて自死の道を選んだ。


 今回、江頭の自死当日彼と会ったという元雑誌編集者の手になる『江藤淳は甦える』を読み、江頭の自負、挑戦、迷い、運不運を辿ることができ、彼の走る姿を応援する気持ちになった。同時期にアメリカに居たことや、鎌倉・吉祥寺など彼の住まいが親や私の住んでいた街と重なるといった親近感も生まれた。戦後の昭和、平成を共に生きたという感慨もある。江頭は晩年、できる事ならもう一度初めからやり直したかったのではないだろうか。限界を踏まえ、同時にその走る姿に共感を籠めて、<江頭淳夫の迷走>という言葉を題に選んだ。
「百花深処」 <江頭淳夫の迷走> (2022年07月22日公開) |目次コメント(0)

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