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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <蘇我氏について>

 前回<ミヌシンスク文明>の項で、古墳時代後期、ユーラシア騎馬民族文化をヤマトの地に持ち込んだのは蘇我氏であろう、という栗本慎一郎氏の説を紹介したが、同氏の『栗本慎一郎の全世界史』(技術評論社)によって、蘇我氏とその後の列島の動きを概観しておきたい。

(引用開始)

■蘇我氏の本流

 6世紀には、蘇我氏系、ユーラシア騎馬民族文化は本流となる。
 仏教は公然と導入される。仏教に入っているユーラシアの価値観が、双子の木、すなわち沙羅双樹である。扶桑国系でない豪族はヤマト政権に対して、反乱を起こす。たとえば527年、九州の磐井(いわい)が反乱を起こして鎮圧される。
 磐井は筑紫の国造で、一応、ヤマト連合政権での正式な地方長官の位置にいた者だが、明らかに地方の小国王である。そして蘇我氏系が満州を重視して、朝鮮半島の任那などに軽視政策を採っていたことに抵抗した。蘇我氏の場合は、朝鮮半島ではクダラとだけ付き合うというものである。シャンピ系の唐が出来ても出来なくても、チュルクとよりつながりのあるポーハイ(渤海国)と関係を保とうとする方向とも対応していた。
 ヤマト朝廷の遣唐使はたたの4回(9世紀末までの全体で15回)だが、渤海使はなんと34回も行われた。唐が無視されすぎだろう。ポーハイが国として生まれたのは7世紀末年だが、北朝鮮、満州方面重視の方向は蘇我氏が作っていたものである。
 結局、任那は562年滅亡した。
 この外交政策が、7世紀、大化の改新にいたる国内対立の起点である。
 だから、蘇我氏を倒した政権は、直後に朝鮮平定の大軍を送った。そしてそこに出征してきた唐と、半島で頑張った新羅に大敗する。

■大化の改新と日本の動向

 大化の改新のクーデターの意味は大きかった。
 4世紀のはじめから250年に繰り広げられたアスカ・パルティアから繋がるユーラシア騎馬民族文化の進行、いわば日本のアスカ化が突然ストップさせられたのである。突然、暴力的に。
 そこまでの話をまとめると、はじめ日本ではなかったヤマトが6世紀に日本になる。そして、蘇我氏はヤマトを大和として、アスカも飛鳥とした。精神の王スメラミコトをおいた上、自分たちが現実の王となる。弥勒信仰の仏教を入り口として聖徳太子はミトラ経を導入しようとした。
 この過程は全体に大化まで250年である。決して短い時間ではない。
 しかし、645年、陰で用意はされていただろうが、突然、クーデターの形でこうした日本のアスカ化は終わりを告げさせられる。
 ここに本来の正統派アリウス派の世界に突然、アタナシウス派が導入されたのと同じ問題が起きたわけだ。反対派(守旧派)を根強く持ちながら、蘇我氏の価値観が主流となっていた。それをゆっくりとではなく、中大兄皇子(天智天皇、天皇在位668~671年)派は一気に粉砕した。
 蘇我氏の勢力は、当然、広範囲の日本の基礎において残存した。
 中核だけが叩き潰されても、土台は残る。一番大きいのは朝廷に距離を置く後の武士団だ。扶桑国の力を最も残す東北地方は全体に反対勢力の土台となる。
 平安時代の平将門の乱、鎌倉時代の奥州藤原氏の黄金文化の繁栄などはそれらの頭をもたげた姿である。
 つまり、金属民、そして山岳民一般がここに入り、それを拠点として平地農耕民に対する山人(さんじん、やまびと)が新たな日本の主流にはっきり敵対し、決して和しない層として形成されたのである。
 一般的には、朝廷・貴族・都市に対して、武士を含む非朝廷・平民(賤民を含む)・山人という対立が恒常的なものとして生まれた。山の漂泊農業は、蘇我氏が王権を取っていた時代にも、社会の反主流派であったが、山人が全体的に反朝廷に組み込まれる中で、また金属民が蘇我氏系であったなかで、はっきり旧蘇我氏側に位置付けられることとなった。
 つまり、平地耕作農民を新主流派の位置に置き、山岳焼畑農耕民は、新反主流派の中心となったのである。
 これが日本における二重構造の構図だ。

■二重性が強化された平安、鎌倉時代以降

 平安時代(794-1192年)は、世界の動きと日本が切り離されて、内部の二重構造だけが働いた時代である。
地方武士団は、地方でのみ活動し、力をつけて行った。しかし、全体の人口増加に至るような展開はなかった。ただ、地方文化がそれなりに展開し、地方独自色が少しあらわれ出た。しかし、「世界の中の日本」にあまり変わりは出なかった。
 鎌倉幕府が、京都を意識して離れたことは、もともとは蘇我氏系であった武士団に改めて総体的な力がついたことを示す。でも日本全体としては、そう変わったわけではなかった。
 天智天皇系の藤原氏の朝廷勢力は、平安時代以降、少しずつ旧蘇我氏系の力に押され始めた。鎌倉時代から室町時代にかけての動きもそれである。当然、二重性は強化される。
 こうして室町時代から安土、桃山時代を経て日本は江戸時代になだれ込むのであった。
 この間、相対的に大きな変化はないまま、旧蘇我氏系の金属民の働きにより、日本内部の金銀銅は十分に発掘された。
 江戸時代農民の自生的発展のほかに、列島という小さな地域で思い切り鉱山事業が展開したことも、世界に冠たることであった。
 これらがまとまって、江戸時代後期の経済的大発展に至るのである。

(引用終了)
<同書 171−175ページ>

ここでいう「二重構造」とは、経済発展は「内部に恒常的異物を抱える社会」が生み出すという栗本氏の説で、キリスト教におけるアリウス派とアタナシウス派の対立をその代表例とする。

 この評論では、列島の国家統治能力の源泉を探る中で、

@ 海洋民族としての倭人
A 狩猟民族としての縄文人
B 農耕民族としての弥生人
C 北方アジア由来の遊牧民族

がそれぞれ、

(1) 坂東や東北・北陸の騎馬文化(AとCのブレンド)
(2) 西国の乗船文化(@、B、Cのブレンド)
(3) 漢字文化(Bのオリジン)

へと発展し、それがさらに、

(1) 騎馬文化=中世武士の思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立

となってきたことを見てきたが、Cを代表する氏族として蘇我氏を考えると、古代から江戸時代までの列島の動きをこのように捉えることができる訳だ。
「百花深処」 <蘇我氏について>(2020年11月07日公開) |目次コメント(0)

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