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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <ミヌシンスク文明>

 前回<遊牧民族の足跡 II>の項で、“扶桑館と扶桑国については、<二冊の本について>の項で紹介した『栗本慎一郎の全世界史』も注目している。栗本氏は、この時期ユーラシアから、巨大古墳、仏教(弥勒信仰・阿弥陀仏信仰)、文字(漢字)、太陽神ミトラ信仰、聖方位(方位上の真北を北にせず、そこから20度西へ振った方位を「北」とする)、二重の王制(現実の王と精神の王とを分けて連立させる)といった文化が、扶桑国を経由して列島に入ってきたという”と書いたが、ユーラシアからの文化は、当地に古くから栄えたミヌシンスク文明(3500BC〜)を源にしている。

 『栗本慎一郎の全世界史』によると、北アフリカに生まれた現生人類は、アフリカを出て北上し、ヨルダンからメソポタミア、コーカサスを通って、まず南シベリアの地にミヌシンスク文明を築いたという。ミヌシンスク文明(スキタイ・サカ人)は、青銅器や金属の使用、狩猟と移動(遊牧)、交易、太陽神ミトラ信仰、領土より人を重視、軍事と宗教の分離・連立、都市の連合、聖方位、鉄器や馬の使用、巨大墓などの特徴を持つ。この文明が起点となって、その後カスピ海の南にメソポタミア文明(3000BC〜)が生み出されたというのが栗本氏の説だ。スキタイ・サカ人は、メソポタミア文明にあるような巨大石造物は作らなかったので遺跡が目立たない。そのことがこの文明を見えにくくしている。しかしこの文明は、ヨーロッパにおけるゲルマン民族移動にまで影響を及ぼす。

 ユーラシアは西から、黒海に近いコーカサス、カスピ海とバルハシ湖の間に広がるセミレチエ、南シベリア、バイカル湖東の興安嶺・北満州と分かれる。北アジアのキォンヌ(匈奴)、シャンピ(鮮卑)、西アジアのパルティア、ササン朝ペルシャ、中央アジアのエフタル、突厥などはみなミヌシンスク文明の特徴を継承している。

 日本の古墳時代、北アジアを制していたのはシャンピ(鮮卑)である。鮮卑の非主流派は北アジアに柔然(402−555)を建て、主流派は南下して、北魏(386−534)、北周(557−581)、随(581−618)、唐(681−907)を建てた。

 非主流派は西へ目を向けたが、555年に中央アジアの突厥に敗れる。鮮卑が(南や西へ向かい)東アジアに来なかったのは、そこに扶余、高句麗といった強力な騎馬民族がいたからだと栗本氏はいう。扶余と高句麗はその支配層を同根とするが、高句麗はやがて扶余を抑え一帯を支配した。古墳時代中期、倭の五王はその高句麗と戦った。

 その後列島には、高句麗や鮮卑、さらには中央・西アジアの文化が扶桑国を経由して入ってくる。巨大古墳、仏教(弥勒信仰・阿弥陀仏信仰)、文字(漢字)、太陽神ミトラ信仰、聖方位、二重の王制などなど。『扶桑国王蘇我一族の真実』の渡辺氏は、扶桑国王は蘇我氏だとしておられるが、栗本氏も、扶桑国を支配したのは蘇我氏であり、古墳時代後期、その文化をヤマトの地に持ち込んだのも蘇我氏であろうという。
「百花深処」 <ミヌシンスク文明>(2020年10月22日公開) |目次コメント(0)

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