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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <遊牧民族の足跡 II>

 前回<遊牧民族の足跡>の項で、“北魏は北から南下して大同から都を洛陽に移します。そして洛陽にきたら、みずから漢人との融合を政策としたとされている。だから北魏は日本の歴史ではあまり関係を評価されていません。ところが北魏のことを書いた『洛陽伽藍記』を読んでいたら、洛陽の都には扶桑館があって、「東夷」の人たちがそこに住んでいる、とある。一種のゲストハウスですね。国家対国家の正史にのこるような交渉があったかどうかはともかくとして、商人たちの交渉はあったと思いますね。そういうふうに北からの文化も入ってきます”という森浩一氏の文章を引用した。『洛陽伽藍記』は、東魏(534−550)の楊衒之が撰した、北魏の都・洛陽における仏寺の繁栄の様子を描いた記録である。

 東魏は、北朝の北魏(386−534)の後を、西魏(535−557)と共に継承した王朝。この北朝二系統は、東魏−北斉(550−577)、西魏−北周(557−581)と続く。古墳時代中期(400AC~500AC)、倭の五王は南朝の宋(420−479)に朝貢していたが、同じころ、北朝・北魏の洛陽に、東夷の人々が住む扶桑館があったことになる。

 『扶桑国王蘇我一族の真実』渡辺豊和著(新人物往来社、2004年7月出版)によると、扶桑館のことは『梁書』にも書かれているという。南朝は宋の後、南斉(479−502)、梁(520−557)、陳(557−589)と続き、やがて北朝系の隋(581−618)によって南北統一される。そのあとの王朝は唐(618−907)。『梁書』は梁の正史。『梁書』には、日本列島には倭国、文身国(倭国から東北七千里)、大漢国(文身国から東五千里)、扶桑国(大漢国から東二万里)の四つの国があること、洛陽の南に外国人居留区がありその中に扶桑館(東方夷人)があったこと、458年にガンダーラ僧によって扶桑国に仏教が齎されたこと、499年には扶桑国の僧・慧深が荊州に来たこと、などが記されているという。渡辺氏は、大陸からトルコ系騎馬民族の蘇我氏がゾロアスター教(拝火教)を携えて列島に渡り、扶桑国王になったと想定しておられる。

 扶桑館と扶桑国については、<二冊の本について>の項で紹介した『栗本慎一郎の全世界史』も注目している。栗本氏は、この時期ユーラシアから、巨大古墳、仏教(弥勒信仰・阿弥陀仏信仰)、文字(漢字)、太陽神ミトラ信仰、聖方位(方位上の真北を北にせず、そこから20度西へ振った方位を「北」とする)、二重の王制(現実の王と精神の王とを分けて連立させる)といった文化が、扶桑国を経由して列島に入ってきたという。

 文字に関して、『地域学のすすめ』森浩一著(岩波新書)に次のような指摘がある。

(引用開始)

 関東には、埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文、墨書土器、文字瓦、上野三碑のような碑文など古代の文字資料が極めて多い。そのような古碑のひとつに、那須国造碑がある。これは現在も栃木県湯津上村の笠石神社に残っていて、永昌元年という唐の年号を刻んだ類い稀な資料である。永昌元年は西暦六八九年で、当時の関東人が唐の年号を知っていたことがわかる。知っていただけでなく、碑文の書き出しに唐の年号を使っていたのである。(中略)
 永昌元年(六八九)は、この碑のささげられた那須直韋堤が評督に任命された、この一族にとっては記念すべき年であり、すでに武井驥が天保六年(一八三五)に著した『那須碑集考』のなかで指摘しているように、韋堤の名は法華経の序品にでている摩掲陀国王の皇后韋堤希(阿闌世王の母)を意識したとの見方がある。
 もしそうであれば、国造韋堤は男性ではなく女性につけられた名前である可能性がないか。八世紀に、関東で女性が国造に任命された記録はある。神護景雲二年(七六八)に常陸国の筑波采女の壬生宿彌小家主や上野国佐位采女の上野佐位朝臣刀自がそれぞれの国の国造に任命されているし、延暦五年(七八六)には上総国の海上国造他田日奉直徳刀自の名がみえる(『続日本紀』)。
 このように、地域に女性の有力者がいても不思議ではない。もしその可能性があるとすれば、群馬県の山ノ上碑は、長利僧が母黒売刀自のために古墳を造営して碑を建てたように、那須国造碑は、子の意斯麻呂が親のために立てた墓にともなうものという推定ができる。そうであればこれらの碑の建立の背景にも共通したもの、いいかえれば女性の大きな役割があったことになる。関東学の裾野は途方もなく広い。

(引用終了)
<同書 22−41ページ(フリガナ省略)>

森氏は別著『関東学をひらく――調査ノート1999−2000』(朝日新聞社)のなかで、高句麗の好太王(広開土王)碑が、子による親の墓への建碑であることから、この那須国造碑について、遊牧騎馬文化との親近性を指摘しておられる(104ページ)。女性の役割については、<騎馬民族と農耕民族>の項で記したように、騎馬民族において女性の地位は高い。

 上野三碑(山上碑681年建立、多胡碑711年建立、金井沢碑726年建立)に関して、『増補版 上野三碑を読む』熊倉浩靖著(雄山社)は、上野三碑が建てられた地域には多数の渡来人がいたこと、地域一帯には朝鮮半島由来の文物や史跡が五世紀半ばあたりから累積し、朝鮮半島との交流が推定されることなどを記しておられる。詳細は同書をお読みいただきたいが、日本三古碑(多胡碑と、那須国造碑700年建立、多賀城碑762年頃建立)との読み比べなど、当時の文字の様子が興味深い。
「百花深処」 <遊牧民族の足跡 II>(2020年09月05日公開) |目次コメント(0)

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