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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <遊牧民族の足跡>

 この評論では、「父性の系譜」と称して、列島の国家統治能力の源泉を探ってきた。その中で、

@ 海洋民族としての倭人
A 狩猟民族としての縄文人
B 農耕民族としての弥生人
C 北方アジア由来の遊牧民族

がそれぞれ、

(1) 坂東や東北・北陸の騎馬文化(AとCのブレンド)
(2) 西国の乗船文化(@、B、Cのブレンド)
(3) 漢字文化(Bのオリジン)

へと発展し、それがさらに、

(1) 騎馬文化=中世武士の思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立

となってきたことを見てきたが、そもそも正史(中央史観)においては、@とCの扱いがとくに過小である。Cについて考えると、

『武士の起源を解きあかす』桃崎有一郎著(ちくま新書11/10/2018初版)
『「馬」が動かした日本史』蒲池明弘著(文春新書1/20/2020初版)

といった最近の(1)に関連する良質の研究を読んでも、Cに対する認識はまだ十分とは言えない。武士や馬が日本を動かしたにしても、なぜ関東の地に、12世紀から14世紀にかけて、さらに17世紀から19世紀にかけて、都合4百年以上も武家政権が続いたのか、その歴史的背景までは論じられていない。以下、Cの足跡をさらに辿ってみたい。

 前回<古代史の骨格>の項で、長野正孝氏の三冊の本(PHP新書)、

『古代史の謎は「海路」で解ける』(1/30/2015初版)
『古代史の謎は「鉄」で解ける』(10/30/2015初版)
『古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける』(10/27/2017初版)

を編年体の形に纏めた。ここではそれを見ながら、まず長野氏の知見を『古代史の謎は「鉄」で解ける』から引用しよう。

 古墳時代中期(400AC〜500AC)<倭の五王の時代>、半島での戦の敗退と共に、高句麗文化が、特に出雲やCの地域(信州・関東)に浸透した。

(引用開始)

 帰国した戦士達は同時に高句麗文化も導入し、高句麗人も渡来したと考えられる。一世を風靡したものののちに否定された江上波夫氏の「騎馬民族王朝説」は、実は当たらずしも遠からずであったのではないだろうか。太平洋戦争では、日本人は「鬼畜英米」と徹底的に闘ったが、終戦後、日本人の生活はアメリカナイズされ、一番の友好国となった。それと同様、強敵とのし烈な戦いの後には当然、畏敬の精神があり、ブームは起きた。
 海洋民族の倭人以外の祭祀も広がった。出雲は部族が国の一か所に集まり十月に大祭をおこなう習慣を四隅突出墳丘墓の時代から行っていたと考えられるが、信州や関東にも広がった。これは豊作祈願の新嘗祭ではない。遊牧民族である高句麗の神は四神と天星である。朝鮮半島の高句麗、新羅の馬具、王冠、刀が九州、丹後、さらに信州からザクザク出土しているのみならず、高句麗の文化まで伝わっている。相撲もこのとき全国に広がった。
 埼玉古墳群に属する稲荷山古墳から、象嵌の太刀とともに高句麗特有の蛇行状鉄器を装着している馬形の埴輪が出土している。銘入りの刀の発見は、鉄剣が出た埼玉古墳群の近くの酒巻古墳群の14号墳から、高句麗文化の影響を受けた多くの人物埴輪が発掘された。その出土した人物埴輪のなかから「みずら」の髪型をした男の埴輪、相撲をとる力士埴輪が発見された。高句麗から海を渡ってきた人々の生活・風俗文化がこの関東に定着していった。
 江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」がロマンとして登場するのは無理からぬところである。実際、出雲、群馬、栃木の毛国(毛野)には騎馬民族系の国家ができていた。

(引用終了)
<同書 149−150ページ(フリガナ省略)>

古墳と四神崇拝については、

(引用開始)

 古代の鉄の流れから考えれば、海洋民族倭国の祭祀は間違いなく航海安全の卜骨祈禱である。ト骨は平安時代まで続いているが、古墳では行われていない。古墳は航海安全とは関係なく、「共飲共食」の場であるからである。
一方四神崇拝であるが、『魏志』「東夷伝」高句麗条には十月に民族が国の一か所に集まり大祭をおこなうとある。それを古墳に導入したのが出雲である。遊牧民族である高句麗の神は四神と天星である。石塚、古墳の祭祀はそのあたりにルーツがあり、丹後、出雲は四神崇拝に近い世界ではないかと思われる。

(引用終了)
<同書 208−209ページ>

とある。同書の先にはさらに、

(引用開始)

 鉄の歴史を追うとき、高句麗の歴史に踏み込み、中央史観が中心地と見なす近畿以外の信州、群馬、埼玉の高麗の国の歴史をさらに詳しく調べてみる必要がある。それによって、全く違う日本史が見えてくる。
 三世紀の宗教祭祀の実際、たとえば、高句麗から鬼神の思想と信仰にもとづいた魔よけ思想が、二世紀頃に日本に渡来している。また、その時代の道教の神仙思想や牽牛と織女を中心とする七夕の儀式、中国東北部の原野を家畜と旅する放牧民の祭祀、状況を想像すれば、その時代の日本人の精神構造がわかるような気がする。

(引用終了)
<同書 209ページ>


と続く。この部分は以前ブログ『夜間飛行』「古代史の表と裏」でも引用した。

 信州や関東に限っていうと、ここまでの内容は、ブログ『夜間飛行』「関東学」の項で引用した『日本史への挑戦』森浩一・網野善彦共著(ちくま学芸文庫)にある話と重なってくる。その部分を再掲しよう。

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(引用開始)

 「関東学」の対象になる範囲は、さきほど網野さんからでましたので、そういう地域に、なにか地理的な特徴がないかと思って考えたのですが、東西だけではなく南北にずうっと続いているのが関東ではないでしょうか。(中略)
 それから北のほうは、山越えをすると新潟のほうへでて日本海沿岸につながります。このルートは非常に重要ではないかと思います。日本海の方面から入ってきた大陸の文化、主に朝鮮半島や華北の文化だと思うのですが、そういうものがたとえば群馬のあたりに影響する。だから群馬の高崎市にある綿貫観音山という前方後円墳からは、近畿ではみないような遺物が出ています。その一つに銅製の水瓶があるのですが、その発掘があってしばらくして、中国山西省の北斉の墓で、ほとんど同じものが出たのです。北朝につながる文物といってよいでしょう。その目でもう一度見直すと、観音山古墳には「三人童女」と俗に呼んでいる若い少女が三人、一つの楕円形の敷物に座っている埴輪があります。その埴輪をよく見ると、スカートの先端にレースのようなものがついている。これなどは北魏の雲崗の石窟の、横に描かれている供養者の女人のスカートに非常によく似ています。おそらく鮮卑族の女性の服装につながるものでしょう。そうすると観音山古墳というのは、日本列島のなかでのつながりはどうか。もちろん埴輪という目でみれば日本列島のなかのものになるけれども、埴輪に表現されている女性の衣装などを見た場合に、朝鮮半島を飛び越えて北魏につながるものも出てくるわけです。北魏は北から南下して大同から都を洛陽に移します。そして洛陽にきたら、みずから漢人との融合を政策としたとされている。だから北魏は日本の歴史ではあまり関係を評価されていません。ところが北魏のことを書いた『洛陽伽藍記』を読んでいたら、洛陽の都には扶桑館があって、「東夷」の人たちがそこに住んでいる、とある。一種のゲストハウスですね。国家対国家の正史にのこるような交渉があったかどうかはともかくとして、商人たちの交渉はあったと思いますね。そういうふうに北からの文化も入ってきます。だから群馬県には、渡来系の人たちが集中して住み、そのために一つの群をつくった多胡郡という地域があって、中国の六朝に流行した形の碑がたっています。この碑はそのルートからの影響をうけたものだろうと思います。
 つぎに、これは当然ですが、東西の道ですね。東の道はのちの白河関への道、そして海岸通りの勿来関、古くは菊田関とよばれていた関を通る道など数本の道があると思うけれども、エミシ(蝦夷)との交流の道になっていて、東ないし北から人びとや品物の入ったルートでしょうね。(中略)「蝦夷」といえば東北のことだと思い込んでいる文献学の人がいるように思いますし、考古学者にもそれに輪をかけてそう考えている人がいます。しかし七、八世紀、あるいは九世紀ころの文献を断片的にみても、エミシとの衝突をしているときもあれば、交易をしている状況もあるから、関東のなかでのエミシの問題やエミシとの交流については、いままであまり意識されていないと思います。これは大いにやらなくてはいけないでしょう。
 西方へのルートは、ふつう碓氷峠とか箱根や足柄からのルートを考えるけれども、それ以外にも、長野や山梨県から埼玉県や群馬県へ入る小さな山道は、相当多いですね。大きなルートは今日の中央線沿いや信越線沿いのルートですが、それ以外にも多くの道があります。何年か前、小渕前首相〔当時〕の出身地の群馬県中之条町によったら、天神や川端という弥生遺跡がほぼ今日の集落に重なるようにしてあるのを知りました。町の歴史館に陳列してある遺物を見ても、関東屈指の弥生集落で、このとき交通路の重要さを改めて感じました。中之条は西へ行くと鳥居峠をこして長野県の上田へ通じているし、草津を通って北方の新潟、つまり日本海方面にも行けるところなんです。弥生時代といっても、米の生産だけでなく、交通上の要地であることも富の一部だったのですね。
 そして長野には、高句麗系の王族を中心にした大集団が一つの郡(高井郡)をつくっています。高井郡には日本の積石塚の半分ぐらいは集中している。そういう集団のさらに拡張したというか、周囲に広まったのが、山梨の渡来系の集団です。山梨は二十年ほど前まで積石塚はないといわれていたけれど、最近は県の西部にたくさん見つかっています。以前は積石塚というのは、四国の石清尾山古墳群のような大きな板状の石を積んだものが連想されていたのでしょうね。さらに東京都の狛江市のあたりまで広がっていて、霊亀二年(七一六)に武蔵国に高麗郡ができたのです。
 長野県の高井郡には高井氏という、高句麗にあっても国王の家柄、一代目の朱蒙(鄒牟)という伝説上の始祖王の子孫を唱える、高句麗でも名門の一族が移ってきています。しかも有力な家来衆を従えてきていて、卦婁、後部、前部、下部、上部など高句麗での名前もずっと残っています。それが西から関東へくる道ぞいの状況です。

(引用終了)
<同書 61−73ページ(フリガナ及び注省略)>

長い引用になったが、越や北陸の古代海洋国家群を通過して、或いはもっと北方から、時計回りに関東に入ってくる遊牧民族の様子がよくわかる。『古代史の謎は「鉄」で解ける』長野正孝著(PHP新書)89ページにあるように、彼らは海を渡った後、先達が築いた川沿いの石墳墓や天空の星を道しるべに内陸へ移動しただろう。

狩猟や騎馬文化、武士のルーツについての話もある。

(引用開始)

網野 もう一つは、関東について狩猟について考えてみたほうが良いと思います。さきほどもいったように将門と牧の関係も深かったといわれていますが、幕府成立直後に頼朝の行った富士の裾野での大規模な巻狩は、東国の王権の性格をよく示していますね。牧を背景にして馬を飼育し、騎馬で狩猟をやるわけです。これも関東の大事な文化要素です。
 前の話と関連させますと、『延喜式』には武蔵国の檜前馬牧をあげていますが、この牧は浅草付近ではなく、美里町駒衣付近に想定してよいでしょう。美里町の白石古墳群や後山王遺跡からは、立派な馬の埴輪が出土していて、馬牧がおかれたとしてもおかしくない環境です。(中略)
 埴輪にはかなり地域的特色があります。それをいままで地域的特色としてはとらえていません。つまり日本文化をいうときに、ならしてしまって、関東にはこういう例がある、群馬にはこういう例がある、とほかの土地にもあるかのように扱うけれども、これもきちっととらえ直さなければいけないですね。なぜ人物や馬の埴輪が関東に多いか。馬の埴輪なんて、全国の出土数の九割は関東に集中しているでしょう。(中略)
網野 狩猟はもちろん中世でも全国でやっていますし、九州も盛んだったと思いますが、関東の狩猟は非常に長く深い伝統があるのでしょうね。ですから頼朝が政権を樹立すると、まず最初に関東の原野で大規模な巻狩をやって大デモンストレーションをします。(中略)
 馬に乗って弓を射るということから考えると、明治や大正の時代に書かれた関東についての諸論文についての評価というか注目度が弱いといえます。たとえば、大正七年(一九一八)に鳥居龍蔵先生が雑誌『武蔵野』にお書きになった「武蔵野の高麗人(高句麗人)」、あれは短い文章ですが、みごとに問題提起をした論文ですね。武蔵野には高句麗系の高麗氏が住んでいる、そしてそれが武蔵野の武人になるという流れで書いています。そういう発想はその後あまりないのですね。十年ほど前に埼玉県行田市の酒巻一四号墳で、馬のおしりに旗を立てた埴輪、まるで高句麗の壁画に描かれている馬を埴輪にしたようなものが、初めて出ました。埴輪の旗ですから一センチぐらい分厚いものですけど、あのときに「大和に出ればおかしくないけれど、なぜ埼玉に出たのだろう」という新聞談話がありましたが、なぜ鳥居先生の有名な論文を読まずに発言したのかと。鳥居論文を読んでいれば、「鳥居龍蔵先生が大正時代に見通されたとおりのものが出ました」でよいわけでしょう。

(引用終了)
<同書 146−152ページ(フリガナ及び注省略)>
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大陸・半島から日本海沿岸に渡ってきた遊牧民族は、先達が築いた川沿いの石墳墓や天空の星を道しるべに、内陸信州へ移動、一部は信州からさらに榛名山の麓を巡って関東の地にたどり着く。

 2017年9月、群馬県歴史博物館で「海を渡ってきた馬文化」という企画展が開かれた。その中で、「よみがえれ!古墳人プロジェクト」というスポット展示があり、2012年に群馬県渋川の金井東裏遺跡で発掘された、五世紀末ないしは六世紀初め頃の、甲(よろい)を着た古墳人の復顔制作が行われた。この男性は、榛名山の方向を向いて前のめりになって倒れていたことから、山の噴火を鎮めようと祈りをささげていたのではないかとも言われる。この一帯では馬の生産が行われていた。私も現地で復顔像と作成された映像コンテンツを見たが、復顔制作で分かったことは、男性は四十代で顔の形や目鼻立ちは朝鮮半島の人のそれだったという。まさに海を渡ってきた高句麗系の遊牧民、もしくはその子孫なのであろう。

 馬の活用、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)崇拝、天星信仰、相撲、石塚、古墳の祭祀・交易などCの文化的特徴は、古墳時代後期(500AC〜650AC)、ヤマトの地に形成された各民族による共同都市(都)にも反映されたが、東日本ではAと混ざり合い、9世紀の僦馬の党、10世紀の将門の乱などを経て、騎馬文化=中世武士の思想のルーツとして、特に関東の地で強固なものになっていったと考えられる。

 それが、12世紀から14世紀にかけて、さらに17世紀から19世紀にかけて、都合4百年以上も関東の地に武家政権が続いた歴史的背景を成しているのではあるまいか。さらに研究したい。
「百花深処」 <遊牧民族の足跡>(2020年07月28日公開) |目次コメント(0)

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