去年の暮、辻邦生の『西行花伝』(新潮文庫、単行本1995年)を読んだ。たいそう面白かったので、そのあと西行に関する様々な本を読んでいる。
『西行』白洲正子著(新潮文庫、単行本1988年)
『西行 わが心の行方』松本徹著(鳥影社、2018年)
『西行論』吉本隆明著(講談社文芸文庫、吉本隆明全集撰1987年)
『西行』高橋英夫著(岩波新書、1993年)
『西行 魂の旅路』西澤美仁著(角川ソフィア文庫、2010年)
最後の『西行 魂の旅路』は再読だがそれ以外は初読で上から順番に読了。
西行(1118-1190)はいろいろな意味で「結節点」に立つ人といえる。以前<
隠者の系譜>の項でも紹介が、平安時代末の歌人で、武士に生まれながら出家して全国を遊行した。
結節点(一) 公家と武士
結節点(二) 出家と歌人
結節点(三) 仏教と神道
結節点(四) 古代と中世
結節点(一)と(二)は、吉本隆明の『西行論』に詳しい。
(引用開始)
若年のある時、在俗の名門武士が不明の動機で出家遁世した。真言浄土の思想に動かされながら、同時代の捨て聖たちとは対照的な生きざまを辿り、詩歌を通じてしか、いっさいの思想を語らなかった―――西行とは何者であったか。芳醇な感性と強靭な論理で見事に展開する西行論。「僧形論」「武門論」「歌人論」の三部構成で西行の<実像>に鋭く迫る!
(引用終了)
<同書カバー裏ページの紹介文>
西行(佐藤義清)は、父方の佐藤家(父・佐藤康清)から武芸を、母方の源家(母・源清経女)から文芸を学んだ。鳥羽院北面武士として、院の安楽寺御幸に随ったことがあるし、平清盛や源頼朝とも接している。また、隠者としての生き方を選びなら、京都の歌人たちとも交友を続けた。公家と武士、出家と歌人という結節点はそういうところに生まれた。
結節点(三)。西行は、京都周辺や高野山、伊勢などに草庵を構え、関東・東北や四国へ旅した。そういった遍歴のなかで西行は、仏教はもとより修験道や神道などを積極的に学んだ。また隠者として自然を友とした。以前<
天道思想について>と<
天道思想について II>の両項で、戦国時代の主導的思想としての「天道思想」について述べた。その特徴は、
(一)人間の運命をうむをいわさず決定する摂理
(二)神仏を等価とする
(三)世俗道徳の実践を促す
(四)外面よりも内面の倫理こそが天道に通じる
(五)太陽や月をはじめとする天体の運行に存在を実感できる
(六)鎌倉時代には日本人の自家薬籠中のものであった
(七)信仰を内面の問題とし他者への表明は不要
(八)その摂理は人間の理解を超えたものである
といったもので、その思想は自然を敬う考え方をベースにしていた。結節点(三)は、この天道思想の先駆けとも見ることが出来る。
結節点(四)について。中世は、様々な力がせめぎ合い、多様な価値観が生まれた時代である。西行に、
願はくは
花のしたにて春死なむ
その如月(きさらぎ)の望月のころ
という歌がある。『西行 魂の旅路』による現代語訳は「私は春、花の下で死にたい。願わくは、釈迦入滅の二月十五日のころに、満月の光を浴びた満開の桜が、私と私の死を照らし出さんことを」。ここに「花のした」とあるが、同書によると、平安和歌では「花のもと」と詠むのが一般的だったという。「花のした」の方が散文的であると同時に、「望月のころ」ということで、
(引用開始)
花の真下から月を見上げる、花を通して月を見る、という構図が意図されたとみるべきであろう。もう少しいえば、私が花を下から見る、ちょうどその時に、上から花を見る月の視点が用意されている。月と一緒に花を見る、月を見るように、月が見るように花を見る、それも(中略)至近距離から、である。「花のもと」ではありえない視点となる。(中略)「もと」から「した」へ。和歌的表現が西行的表現に変わる瞬間であり、もっと言えば、王朝和歌が中世和歌に転移する瞬間だったのである。
(引用終了)
<同書 256ページ>
「和歌と仏教の往生」「花の下からと花の上から」といった複数の価値観や視点の導入、散文的精神。西行は、歌によって中世を切り開いた先駆者といえよう。ここにはまた、後の一休宗純に発する<
反転同居の悟り>の萌芽もありそうだ。
先日ブログ『夜間飛行』「
現場のビジネス英語“mind & sensory”」の項で、
空になる
心は春の霞にて
世にあらじとも思ひ立つかな
という西行の歌を引用した。『西行 魂の旅路』による現代語訳は「心が空に吸い込まれる感覚は、ちょうど春霞が立つのに似ていたので、同じ立つなら、私もこのまま世を遁れようと思い立ったのである」。同項では、「空に吸い込まれる感覚」の「心(こころ)」という言葉は感性の強い影響下にあり、複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
においてB側を代表すると書いた。しかしこの歌にも実は、「複数の視点」が用意されている。それは「思い立った」という主体の側の視点だ。
英語(などの西洋語)が列島に齎されたのは中世以降だが、それまでのA側は、大陸から入った漢文が担っていた。仏典に精通していたであろう西行は、「空に吸い込まれる感覚」(遊離魂感覚)の「心(こころ)」の他に、漢文的発想における「自意識」を「私もこのまま世を遁れようと思い立った」という主体の視点で併せて歌に詠み込んでいる。
高橋英夫の『西行』によってこの「複数の視点」を確認したい。氏は、
もの思へば
沢の蛍もわが身より
あくがれいづる魂(たま)かとぞ見る
という和泉式部の歌にも西行の歌と相通ずる遊離魂感覚があるとした上で、
(引用開始)
しかしそれと共に、西行には西行の独自性があった。それが西行の「意識」または「自意識」である。和泉式部の場合と異なって、遊離していくもの自体も、それをじっと凝視している「心」も、西行の自意識によって裏打ちがされていた。というよりもこれは、遊離してゆく魂の中にも、その遊離魂を見つめている西行の中にも自意識が分有されて入っていた、といった方がいいかもしれない。内があり外があるという状態、それはもと一つであったものが、活動によって二つに分離したのだが、それを感じとっているのは「心」である。「心」はたんに静止的なものをとらえるのではなく、分離・分割といったダイナミックスをもとらえることができる。と同時に「心」は、かつてみずからの内にあってみずからの一部であったものを見つめているのだから、そこには自己凝視の特性が含まれている。
(引用終了)
<同書 25ページ>
という。
西行の「複数の視点」といえば、次の歌はどうか。
心なき
身にもあはれは知られけり
鴫立沢の秋の夕暮れ
『西行 魂の旅路』による現代語訳は、「世捨て人である私が感じ取ったこの感動を、和歌のことばで伝えたい。鴫(しぎ)の群が飛び立った羽音の轟く沢辺に、秋の夕暮れが寂しく訪れる」。西澤氏はここで、「心なき身」を「世捨て人である私」と訳しているが、『西行花伝』(辻邦生著)はこれを、余分なものを切り捨てた武士である鎌倉殿(源頼朝)の「この世の勝利、成功しか見ない、心なき心」として解釈している(同書709ページ)。さらにこの歌を言葉通りに解釈すると、「心なき身」という抜け殻としての身体と、「あわれ」を感じている自意識という、中世的な「複数の視点」が配されているという見方も成り立つ。
鴫立沢の歌には、
結節点(一) 公家と武士
結節点(二) 出家と歌人
結節点(四) 古代と中世
といった西行の「結節点」の三つが揃っている。結節点(三)の仏教と神道も、自然を敬う態度(天道思想)としてこの歌に含まれている。
「結節点」の多さ、そしてこういう歌の巧みさが、我々の興味を西行に引き付けるのだろう。
晩年の、
風になびく
富士の煙の空に消えて
行方も知らぬ我が思ひかな
「風に吹かれてなびく富士の噴煙が空に消えて行方もわからない、そのように、私の思いもこれから先どこにたどり着くのか自分でもわからない」(『西行 魂の旅路』による現代語訳)。
や、生涯最後の一首となった、
にほてるや
凪たる朝に見渡せば
漕ぎ行く跡の波だにもなし
「風が凪いで朝日の輝く琵琶湖の水面を見渡すと、沙弥満誓が無常観を詠みあてた舟の姿は言うまでもなく、航跡に立った白波さえも消えてしまった」(『西行 魂の旅路』による現代語訳)。
などの歌も心に響く。