前回<
渋沢栄一と福沢諭吉>の項で、“渋沢と福沢が手を携えて日本独自の統治思想を組み立ててくれていれば、歴史は別のコースを辿ったかもしれない”と書いたが、今回『現代語訳 論語と算盤』渋沢栄一著/守屋淳訳(ちくま新書)と『現代語訳 学問のすすめ』福澤諭吉著/斉藤孝訳(同)を参考にしながらそれを仮想として考えてみた。まず<
宗教・思想基本比較表>から戦国時代の天道思想の枠組みを再掲する。
<天道思想>
「対象」:天道信者
「至高」:天道(自然現象)
「教義」:神仏儒などの宗教
「信仰」:教義を守る(儒教の教義を守る)
「特徴」:個人救済。因果律。
次に同じ枠組みを使って、渋沢と福沢の思想をスケッチしてみよう。
<渋沢栄一の統治思想(仮想)>
「対象」:日本国
「至高」:天道(自然現象)
「教義」:論語
「信仰」:教義を守る
「特徴」:政治による集団救済。因果律。
<福沢諭吉の統治思想(仮想)>
「対象」:日本国
「至高」:天(自然の摂理)
「教義」:西洋合理思想
「信仰」:教義を守る
「特徴」:政治による集団救済。因果律。
戦国時代の天道思想と渋沢の統治思想(仮想)との違いは、「対象」が異なることと、前者の「特徴」が個人救済であるのに対して、後者が政治による集団救済となっているところ。近代の統治思想は「対象」が国家(近代国家)であり、「特徴」は政治による国民の救済となる。その他は同じと考えて良いだろう(日本における儒教の「教義」は論語主体)。
渋沢の統治思想(仮想)と福沢のそれとの違いは、前者の「教義」が論語であるのに対して、後者が西洋合理思想であるところ。「至高」は両者とも同じと考えて良いだろう(どちらも“天皇”ではないところが重要)。
渋沢も福沢も、政体としてはデモクラシー(代議制民主政体)を採用すると考えられる。二人とも西洋に学んでおり(渋沢は主にフランス、福沢は主にアメリカ)、民主政治を導入するのに躊躇はなかった筈。ただし、渋沢における代議制は、「教義」(論語)からではなく、「至高」(天道思想)の方から導き出されたであろう。儒教は聖人政治を理想とするので、代議制とは直接結びつかないが、<
天道思想による統治>の項でみたように、天道思想による統治にはもともと「目安箱の設置による民衆の声の吸い上げ」、「評定衆と奉公人による民主的裁判制度」といった「領民との共存、話し合い重視」の考え方がある。一方、福沢の代議制は、「教義」からそのまま<自然権>として導き出されただろう。二人の統治思想を合わせると、
<渋沢・福沢の統治思想(仮想)>
「対象」:日本国
「至高」:自然
「教義」:論語+西洋合理思想
「信仰」:教義を守る
「特徴」:政治による集団救済。代議制民主政体。因果律。
となる。
さて、これで日本は20世紀を乗り越え、実り多い21世紀を迎えられただろうかというと、そうはならなかったと思う。「教義」が論語+西洋合理思想だけでは、日本の統治は、官僚たちに牛耳られていたに違いない。儒教の聖人政治はそのままでは漢字文化=律令体制の確立に傾斜するし、『夜間飛行』「
“モノ”余りの時代」で述べたように、西洋合理思想においては、自然権派はその後過激な人権派に敗れ、やがて人権派は官僚たちに敗れるからだ。実り多い未来に向けて、そうならないような「教義」の深化が必要である。