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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <渋沢栄一と福沢諭吉>

 『福澤諭吉 フリーメイソン論』石井利明著・副島隆彦監修(電波社)という本を読んだ。副題は「大英帝国から日本を守った独立自尊の思想」。渋沢栄一(1840-1931)と比べて、福沢諭吉(1835−1901)の思想にはどのような特徴があるのか。まず本帯表の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

碩学(せきがく)にして行動者、実践家、温厚な教育者にして大実業家の思想の真髄に迫る。アメリカの独立革命に深く関与したフリーメイソンと手を携え、日本の独立の為に思想、学問で戦い続けた福澤諭吉の生涯から、日本の進むべき道が見えた!!

(引用終了)

 福沢は下級藩士(豊前国中津藩)の次男として大阪で生まれた。渋沢栄一と福沢の父親の教育観の違い(渋沢に比べて福沢は十分な儒教教育を受けられなかった)について、<渋沢栄一と天道思想>の項で参照した『渋沢栄一(上)算盤篇』鹿島茂著(文春文庫)に次のようにある。

(引用開始)

 しかしながら、ここではこうした教育投資に関する両者の財力の相違よりも、むしろ下級武士であった福沢諭吉の父と富裕農民であった渋沢栄一の父との間の教育観の「微妙な相違」に注目すべきかもしれない。つまり、両者ともに子供の教育は読み書き算盤ではなく漢籍に拠るべしという共通した考えをもちながら、士族であった前者は純粋な学問としての儒教を学ばせようとしたのに対し、農民であった後者は「今日の世に立つにはどうしても相当の学問がなければならぬ」と考え、儒教を職業的実践の倫理として教えたいと願っていたという違いである。
 なぜなら、この儒教観の相違は、後に、諭吉と栄一の学問観に大きな影響を及ぼすことになるからである。すなわち、同じように実利を離れた学問を否定する立場にたちながら、諭吉が父に対する反動からか、洋学に実利の理想を求めることになったのにひきかえ、栄一はあくまで儒学にこだわってこれを己の倫理の基盤に据えることになるのである。

(引用終了)
<同書 39−40ページ>

富裕農民の出の渋沢は儒学を、下級武士の出の福沢は洋学を、己の倫理基盤・理想に据えた。渋沢は関東、福沢は大坂と大分で若年を過ごす。

 『福澤諭吉 フリーメイソン論』の章立ては次の通り。

第一章 世界規模のフリーメイソン・ネットワーク
第二章 長崎出島と幕末の開国派ネットワーク
第三章 ユニテリアン=フリーメイソンとアメリカ建国の真実
第四章 文久遣欧使節団とフリーメイソンの関係
第五章 攘夷の嵐を飲み込む大英帝国の策謀
第六章 明治維新と慶應義塾設立
第七章 福澤諭吉と宣教師たちの本当の関係
第八章 日本の独立自尊と近代化のために

フリーメイソン、ユニテリアンとは何か。本書からその説明を引用しよう。

(引用開始)

 フリーメイソンとユニテリアンについて説明する。
 重要なこと、すなわち問題の核心は、ユニテリアンとフリーメイソンが、自分たちの教義の中心に“理性”を置いていることだ。
 信仰、信条の中心にある理性が、旧来の神(God)に取って代わった。私は、このようにはっきりと言い切る。ユニテリアン=フリーメイソンの理性信仰、理性崇拝のことを、すこしだけ難しい言葉でいえば、“理神論(deismデイズム)”という。ユニテリアン、フリーメイソンたちこそが、この理神論の担い手なのだ。
 一九世紀のフリーメイソンたちは、現在考えられているようなカルト的な闇の集団ではない。非常に優れた立派な人々の集まりである。
 この理神論(神の存在の合理的な説明)の成長と発展こそが、ヨーロッパが近代(modern)へと歩んだ一六世紀、一七世紀、一八世紀、一九世紀の全努力と言っても過言ではない。(中略)
 ユニテリアンは、他のプロテスタントの宗派よりも、キリスト教の正統派(ローマンカソリック)の原理(ドクトリン)の三位一体(trinityトリニティ)を公然と否定した。
 彼らユニテリアンは、三位一体(トリニティ)を否定し、神の唯一性(ユニティ)を信じる人々だからUnitarians(ユニテリアン)なのだ。正統派キリスト教会が強制する三位一体を信じない。だから、自分たち自身をユニテリアン(unityユニティ‐ariansアリアンズ)と呼び、かつそのように周りからも呼ばれた。

(引用終了)
<同書 115−116ページ>

福沢は、このユニテリアン=フリーメイソンの理性信仰を己の理想とした。

 同書には、アメリカ独立戦争を戦ったのは、ユニテリアン=フリーメイソンの人たちだったとある。彼らはヨーロッパの啓蒙思想家たちから多くを学んだ。福沢の『学問のすすめ』という著書はこの思想を日本に紹介したものだ。

(引用開始)

 この本(『学問のすすめ』)は、諭吉がアメリカを研究し、イギリスから独立を果たしたアメリカの独立宣言の手本になった啓蒙思想家・ジョンロックの自然権の思想を学んだことが反映されている。その自然権を諭吉は、「天賦人権論」という言葉で日本に広めた。その内容は、まさに「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と諭吉が書いた通りだ。

(引用終了)
<同書 187ページ(カッコ内引用者註)>

 福沢は、長ずるに及び、薩長を裏から操るイギリスに対抗すべく、アメリカのユニテリアン=フリーメイソン人脈を活用した。

(引用開始)

 福澤諭吉の人生のハイライトは、日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で戦い続けた。ここに福澤諭吉の生涯の大きな意義がある。

(引用終了)
<同書 6−7ページ>

 福沢は、慶應義塾を開き(1868年)、東京学士会院(現日本学士院)の初代会長に就任(1879年)、結社「交詢社」を設立(1880年)、交詢社による私擬憲法(交詢社憲法案)を発表(1881年)、日刊新聞「時事新報」を創刊(1882年)、慶應義塾大学部の発足(1890年)などを行い、日本の教育・学問の向上に努めた。合理思想による個の自立、それが福沢の目指した理念だ。

 前回<武士の再興 II>の項で、列島の父性(国家統治能力)の源泉、

(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
(4) 西洋文化=キリスト教と合理思想

において、渋沢栄一は、天道思想によって(1)を再興したと書いた。

 幕末期、西洋の近代国家にも伍してゆけるような統治理論を、列島の内側から芽生えさせるには、

@(1)をどう再興させるか
A(2)と(4)をどう統治に生かすか

という課題をクリアーしなければならないかったという点で考えれば、渋沢は@の、福沢はAの突端を開いたといえるだろう。

 しかし二人は、片や実業(渋沢)、片や教育(福沢)の面で主に活動し、統治には関わらなかった。<「神国日本」論 III>でみたように、策略によって明治政府を打ち立てた薩長の中間・下級武士、京都の下級公家たちは、(1)から(4)の力をバランスよく政治に活用することよりも、統治正当性を「国家神道」に置き、無謀な領土拡大に突き進んていった。渋沢と福沢が手を携えて日本独自の統治思想を組み立ててくれていれば、歴史は別のコースを辿ったかもしれないのだが。
「百花深処」 <渋沢栄一と福沢諭吉>(2019年09月05日公開) |目次コメント(0)

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