以前<
武士の土着>と<
武士の再興>の項で、
◎ 列島の父性(国家統治能力)の源泉、
(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
(4) 西洋文化=キリスト教と合理思想
において、戦国時代の天道思想は(1)、(2)が主、(3)が従。信長の預治思想は天道思想に(4)が加わった。キリスト教禁制・鎖国の徳川朱子学は(3)が主、(1)が従。(2)は特に関西において商業の思想的基盤として、(4)は長崎の出島を前線に蘭学として共に傍流を形成した。
◎ (1)が弱まり(2)と(4)が傍流に止まった徳川時代、天道と民意とを結びつける新しい思想はなかなか生まれなかった。列島統治思想のユニークさは、中国にも西洋にもない、中世武家政治が培った(1)と(2)があることで、西洋の近代国家にも伍してゆけるような統治理論を、列島の内側から芽生えさせるには、
@(1)をどう再興させるか。
A(2)と(4)をどう統治に生かすか。
という二つの課題をクリアーしなければならなかったと思う。
◎ (1)を再興するにはどうしたらよいか。それには、(1)にもともとあった<
天道思想>を活用するのが最適ではないだろうか。そうすれば、列島の内側から、新しい統治理論が誕生していたかもしれない。
と論じた。
前回<
渋沢栄一と天道思想>の項で、渋沢と天道思想との近接について書いたが、この推察が正しいとすると、徳川政権が幕を閉じるまさにそのとき、中世武士のメッカ・関東の地から、天道思想を受け継ぐ武士の志が生まれ出た、ということが出来る。渋沢は深谷の豪農出身だが、武士としての素養も身に付けていた。
<渋沢栄一と天道思想>の項で参照した『渋沢栄一(上)算盤篇』鹿島茂著(文春文庫)の第四章の〔第三十七回 国立銀行の危機〕に、次のような文章がある。
(引用開始)
明治六(一八七三)年に渋沢が大蔵省を辞めて、第一国立銀行の総監役となったとき、彼の胸中には二つの大きな抱負があった。
一つは、株式会社という細流主義に依拠して、国民全員を経済人に仕立て、それによって富国をはかると同時に、武士だけが空威張りする封建身分制度を打倒すること。つまり国民全員を産業人にすることで、武士という非産業人をなくしてしまおうというベクトルである。これは株式会社を革命の方法論とするサン=シモン原理主義的な渋沢の側面をよくあらわしている。
もう一つは、これとはまったく異なるベクトルで、武士以外の農工商の民に、武士の魂、すなわち、己を抑えるすべを知った仁の精神を与えようとするものである。
渋沢は、大久保や西郷のような、富国のもとになる産業がどこから出てくるかを理解しない太政官制府の面々に激しい苛立ちを覚えたが、その反面で、上辺だけはお上の言い付けに従いながら、その実、自分たちの利益しか考えない古い面従腹背の商人にも同じような憤りを感じていた。彼らの「私」では、富国を目指す商工業は生み出せないのがわかっていたからである。
どうすればよいのか?武士の魂を持ちながら、利潤の追求をおろそかにしない産業人という新しいタイプの「私人」を創出するしかない。渋沢のいう道徳経済合一説とは、この新しい「私人」の創出を目指した思想であった。
(引用終了)
<同書 464−465ページ(フリガナ省略)>
ここにある「武士の魂を持ちながら、利潤をおろそかにしない」という渋沢の態度こそ、天道思想を信奉した中世武士の棟梁たちの考えと相通じるものであり、西洋の近代国家に伍してゆける、新しい統治理論となり得るものだったと思う。
渋沢は人生の大半、官(public sector)ではなく民間(private sector)に身を置いたので、自分の考えを統治理論にまで昇華させることはなかった。『夜間飛行』「
幕末史の表と裏」の項で、“幕末、西洋の近代国家にも伍してゆけるような統治理論を列島の内側から考え得たとすれば、それは14代将軍家茂ではなかったか”と書いたが、もし慶応2年(1866)に家茂が死亡していなければ、当時将軍就任前の慶喜に仕えていた渋沢に、自分の考えを(家茂に)訴える機会が生まれていたかもしれない。そうすれば、公武合体に活路を見出そうとしていた家茂が路線を見直して、新しい統治体制の構築に動いたかもしれない。当時の身分制度や政治状況を考慮すれば、かなり無理筋の「歴史のif」ではあるが。
渋沢栄一の考えを統治理論に生かそうと考える人物は、その後この列島に生まれたのだろうか。さらに研究しよう。