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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <幕末の国家統治>

 日本人(日本語を母語とする人)の国家統治能力(父性)の研究「父性の系譜」シリーズ、幕末は、

(1) 騎馬文化(中世武士思想のルーツ)
(2) 乗船文化(武士思想の一側面)
(3) 漢字文化(律令体制の確立)
(4) 西洋文化(キリスト教と合理思想)

という4つの国家統治能力(父性)タイプのうち、(4)が怒涛のように押し寄せた時代である。

 科学発展、交易促進、武力誇示、資本主義、政教分離、民主政治、平等、個の自立、といった今に通ずる西洋近代の価値観は、徳川幕府が<代議制>の項などで論じた近世のあらまほしき統治形態、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)は預治思想による集権化
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)は天道思想による分権化
〇 文化政策(宗教・芸術)は政治とは切り離して自由化

「預治思想」=「天命(民意)を預かり治める(代議制)」
「天道思想」=「自然を敬う考え方」

を取っていれば、なんとかその中で対応・吸収できたかもしれない。しかしそうでなかったため幕府は崩壊せざるを得なかった。その代わりに出来た明治政府は、(4)のキリスト教をまねた「国家神道」を作り、西洋文化の価値観も受け入れたがどれも中途半端に終わった。やがて日本は無謀な戦争に突入してゆく。

 西洋文化の価値観の受け入れが中途半端に終わった理由は、複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比において、B側の「日本語的発想」が強かった(今も強い)からだと思われる。A側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。

 以前『夜間飛行』「反転法」の項で、日本独自の反転法はA側の発想法でありながらB側に接近していたと書いた。幕末の「尊王攘夷」を支えた国学は、「神という超価値的なものを設定するによって、どんな思想体系や政治体制も、歴史の自然な流れのひとつのめぐりあわせにすぎないことにしてしまった」という意味において反転法的(非体系的)であり国家統治には向かなかった。

 『夜間飛行』「内的要因と外的要因」の項で、幕末の4つの国家統治能力(父性)について、

(引用開始)

幕府内においては、武士のサラリーマン化で(1)が弱まり(3)が主流になっていた。(3)の官僚主義は新しいことを嫌う。(2)と(4)はそれなりに社会で機能していたのだが、それは幕府においてではなく、(2)は特に関西において商業の思想的基盤として、(4)は長崎の出島を前線に蘭学としてだった。徳川時代末期、西洋の英語的発想=弁証法が漢文的発想に置き換わってゆくと、蘭学(と陽明学)は幕府政策に影響力を持ってくる。しかしそれは負の影響力だった。幕府主流は(3)のままだから新しいことを嫌った。だから(4)はもっぱら反幕府側の思考を支えることとなった。幕府のA側は脆弱だったといえるだろう。

(引用終了)

と書いたが、日本の外からはイギリスが倒幕に力を貸していた。明治政府の体裁(憲法や議会など)は、イギリスが主に西南雄藩の人材を指導して作らせたといえる。しかしその際彼らは「国家神道」を黙認したため、日本政治は合理思想の歯止めが利かなくなってしまう(国家神道にキリスト教と同じ効果を期待したのかもしれないが)。

 以下、歴史の主な出来事を辿ってみよう。

嘉永6年(1883)6月:ペリー来航、12代将軍家慶没。
同年10月:13代将軍家定就任。
嘉永7年(1884)3月:幕府、日米和親条約に調印。
安政5年(1885)6月:幕府、日米通商条約に調印(朝廷拒否)。
同年7月:将軍家定没。
同年10月:14代将軍家茂就任。安政の大獄始まる。

13代将軍家定が病弱だったため、次の将軍継嗣問題を巡り、紀州藩主徳川慶福(のちの家茂)を推す南紀派と、前水戸藩主徳川斉昭の子一橋慶喜を推す一橋派の間で争いが生じた。南紀派(彦根藩主井伊直弼、大奥、譜代大名、将軍側近ら)は「佐幕」、一橋派(徳川斉昭、薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平慶永、上島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信、親藩、外様大名ら)は「尊王攘夷」を主張。井伊直弼は大老就任後、朝廷(孝明天皇)の意向を無視して日米通商条約に調印、さらに家茂の将軍就任を強行、一橋派の弾圧(安政の大獄)を始める。この「尊王攘夷」を思想的に支えたのは反転法の国学や水戸学だが、その主張には、武力による「攘夷」から交渉による「攘夷」まで幅があり、唱える者の立場によって、鎖国から開国、公武合体、倒幕まで「何でもあり」だった。尊王攘夷が倒幕へと収斂してゆくのは、反幕府勢力(西南雄藩中心)がこの融通無碍なスローガンを政治利用したからだ。

安政6年(1859)5月:イギリス駐日総領事オールコック着任。
同年9月:開港直後の長崎でグラバー商会が設立される。
同年10月:安政の大獄激化、吉田松陰・橋本佐内など処刑される。
安政7年・万延元年(1860)3月:井伊直弼暗殺(桜田門外の変)。
同年8月:徳川斉昭没。
同年10月:皇女和宮を将軍家茂の妻とする勅許が孝明天皇からおりる。
万延2年・文久元年(1861)11月:皇女和宮江戸到着。

南紀派の井伊直弼が水戸藩浪士らに暗殺され、同時に一橋派の徳川斉昭も死去したことで、公武合体の動き(具体的には将軍家茂への皇女和宮降嫁)が加速。一方アヘン戦争(1840−1842)で中国市場をこじ開けたイギリスは、日本に対しても、自国に最も有利な政治体制を作るべく画策。この時期アメリカは南北戦争(1861-1865)、ロシアはクリミア戦争(1853-1856)の後始末で忙しかった。

文久2年(1862)1月:坂下門外の変(老中安藤信正が水戸藩士に襲われる)。
同年2月:皇女和宮の婚儀が江戸城で行われる。
同年8月:生麦事件(薩摩藩主島津久光一行がイギリス人を殺傷)。
同年12月:長州藩士らが英国公使館に放火。
文久3年(1863)3月:孝明天皇と将軍家茂、加茂下社・上社で攘夷祈願。
同年5月:長州伊藤博文・井上多門らがイギリスへ密出国。
同年8月:生麦事件の余波でイギリス艦隊が薩摩を攻撃、薩英戦争始まる。
文久4年・元治元年(1864)3月:フランス駐日大使ロッシュ着任。
同年7月:第一次長州征伐。
同年8月:下関戦争(英・米・仏・蘭の連合艦隊が長州を攻撃)。
元治2年・慶応元年(1865):薩摩藩士五代友厚ら19人がイギリスへ出発。
同年9月:英・米・仏・蘭の艦隊が兵庫開港を迫る。
同年11月:第二次長州征伐の為の出兵を薩摩藩が拒否。

幕府と朝廷の間で公武合体の動きが続くが、尊王攘夷をスローガンとした反幕府勢力(西南雄藩中心)のテロや対外武力行使が激化、イギリスとフランスの間で日本市場を巡る争いも活発化、後半イギリスは反幕府勢力支持を決める(フランスは幕府を支持)。

慶応2年(1866)1月:薩長同盟成立。
同年7月:将軍家茂大坂城で死亡(20歳)。
同年8月:長州征伐休戦の勅令が下る。
同年12月:15代将軍慶喜(徳川斉昭七男)就任。
慶応3年(1867)1月:孝明天皇死亡(35歳)。
同年2月:新天皇即位。
同年10月:将軍慶喜、大政奉還を上奏。
同年12月:反幕府勢力王政復古布告。
慶応4年・明治元年(1868)1月:鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争始まる。
同年3月:江戸無血開城。
同年3月−10月:神仏分離令。
同年7月:江戸が東京と改められる。
同年9月:年号が明治と改元され明治天皇が東京へ。

イギリスの態度決定後、薩長同盟に始まる反幕府勢力の勢いが増進、将軍・天皇が相次いで死亡し王政復古がなされる。幕府は賊軍、反幕府勢力が官軍となり、翌年明治新政府が開かれた。

 明治時代の主な出来事は以上の通り。

明治元年(1868):版籍奉還。
明治4年(1871):廃藩置県。
明治6年(1873):徴兵令、地租改正。
明治10年(1877):西南戦争。
明治22年(1889):大日本帝国憲法発布。
明治23年(1890):第一回帝国議会。
明治27年(1894):日清戦争始まる。
明治35年(1902):日英同盟。
明治37年(1904):日露戦争始まる。
明治41年(1908):皇室祭祀令発布。
明治43年(1910):大逆事件、韓国併合。
明治45年(1912):明治天皇没。

前にも書いたように、明治政府は、キリスト教をまねた「国家神道」を作り、無謀な戦争に突入してゆく。
「百花深処」 <幕末の国家統治>(2019年06月04日公開) |目次コメント(0)

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