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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <「神国日本」論 II>

 <「神国日本」論>の項で、統治正当性に関する秀吉・家康と信長の発想の違いについて論じた。信長は統治正当性を自ら編み出した「預治思想」に置いたのに対して、秀吉・家康はそれを朝廷(神国日本)に戻した。その理由について同項では、信長の突出性と、キリスト教圧力回避の為、という二点を挙げたわけだが、それだけで秀吉と家康は、それまで仕えていたり同盟を結んでいた天下人の統治思想を、あっさり捨て去ることができただろうか。信長の側にあった二人ならば、<一所懸命と天下布武>や<代議制>の項で述べた、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)は預治思想による集権化
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)は天道思想による分権化
〇 文化政策(宗教・芸術)は政治とは切り離して自由化

といった統治の方向性も探り得たのではないだろうか。二人がそうしなかったのには、上記二点以外にも、もっと別の理由があったのではないだろうか。そのことについて考えてみたい。

 前回<本能寺の変>でみた信長暗殺秀吉主犯説は、なるほどこれなら秀吉は統治正当性を朝廷に戻さざるを得なかった、と納得できる。下克上によって主君を討った以上、統治正当性を主君とは別のところに求めなければならないが、信長以上の理論を持たない秀吉としては、前の時代の例に準拠するのが手っ取り早かっただろう。彼は近衛前久の猶子となって関白に任官し、朝廷と融和の道を選んだ。秀吉主犯説は勿論外史(非正史)だが、秀吉が天下統一に当たり、統治正当性を信長の預治思想ではなく朝廷(神国日本)に戻したことと整合する。

 それでは、家康の場合はどうか。秀吉を葬り去った家康はなぜ、かつての同盟者・信長の統治正当性理論に復さなかったのか。彼は統治にあたり、儒教による天命と中華思想は導入したけれど、統治正当性については、自ら征夷大将軍となり朝廷(神国日本)秩序を温存した。<信長における父性>や<預治思想について>の項でみたように、信長の預治思想は、「天命」の下、天皇、将軍、神道といった権威をも相対化するものだった。しかし、家康の統治思想(徳川朱子学)は「天命」と「天皇」とを共存させる折衷的なものだ。何故そうなったのか。信長の突出性、キリスト教圧力回避の為、以外の理由を探っていこう。

 <信長における父性>の項で紹介した信長暗殺イエズス会主犯説の『闇に葬られた歴史』という本に、「徳川家康の正体――村岡素一郎『史疑』を蘇らせる」という章があり、著者の副島氏はそこで、『史疑・徳川家康の事蹟』村岡素一郎著(明治35年刊)という本を紹介する形で、徳川家康の正体は、当時の静岡駿府城下の町人町で育った、世良田元信という忍者集団の棟梁だったらしいと述べている。詳細は同書および『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』副島隆彦著(PHP研究所)をお読みいただきたいが、桶狭間の戦で今川義元が信長に敗れた直後、元信は今川勢の松平元康が自分の居城・岡崎城に戻ったところを襲い、策略によって元康になり替わったとする。男は浜松城を根城にしてやがて徳川家康と名乗る。

 この説に従うと、家康が朝廷(神国日本)秩序を温存した理由がわかりやすい。四天王と呼ばれる側近(酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政)や古い家臣たちはこの事実を知っているし、敵方や朝廷にも情報は漏れていただろうから、統治正当性を信長の預治思想に復そうとすれば、出自の問題が表に出る可能性があった。寝た子を起こすよりも、「天命」と「天皇」とを共存させる折衷的なもので妥協を図ったというわけだ。

 以前ブログ『夜間飛行』の「内的要因と外的要因」の項で、徳川幕府正当性の理論付けが弱かったのは幕府による泰平が盤石だったから、という説を紹介したけれど、背後に家康の出自問題があったと考えると、さらに説得的である。<宗教・思想基本比較表>から、預治思想と徳川朱子学との違いを確認しておこう。

<預治思想>
「対象」:日本国
「至高」:天命
「教義」:天下布武(未完成)
「信仰」:教義を守る
「特徴」:政治による集団救済。因果律。

<徳川朱子学>
「対象」:日本国
「至高」:天皇
「教義」:神仏儒などの宗教
「信仰」:教義を守る(儒教の教義を守る)
「特徴」:政治による集団救済。因果律。

 以上、秀吉と家康が信長の統治思想を捨て去った理由として、信長暗殺秀吉主犯説と家康の出自問題という外史を見てきた。かつて藤原氏によってなされた朝廷権威と統治正当性の連結が、中世の終わりに信長の預治思想によって一旦分離された後、近世に入って「神国日本」論として復活した背景にこのような事態があったとすると、それは後世にどのような影響を与えただろうか。さらに項を改めて検討したい。

 ところで、信長暗殺秀吉主犯説の井上氏、イエズス会主犯説の副島氏は共に、「光秀天海説」を主張しておられる。『本能寺の変 生きていた光秀』井上慶雪著(祥伝社)を見てみよう。同書の目次から主だった主張を並べる。

第一章 明智光秀の生涯を再検討する
● 事件のはるか後に書かれた二冊の記述がすべてを決めた
● 天海は関ヶ原の合戦に参戦し、小早川秀秋の「裏切り」を画策した

第二章 明智光秀から天海僧正への転生、その道程
● 光秀は生き延びていた、という史料が存在する
● 秀吉が光秀の偽首をあえて「本物」と認めた理由
● 光秀は「荒深小五郎」になった――「光秀天海」への転生その1
● 比叡山の僧侶・随風と入れ替わった――「光秀天海」への転生その2
● 天海は比叡山で何を学んだのか

第三章 徳川幕府中枢との黒い接点
● 家康と天海の最初の接点は?
● 「明智シフト」の一人、春日局の数奇な生い立ち
● 徳川家光は誰の子か?
● 家光がお江の実子ではありえない明白な証拠
● 三代将軍家光の「二世将軍」としてのプライド
● 徳川家光には「明智の血」が流れている

第四章 関ヶ原の合戦と天海
● 秀吉亡き後の家康の野望
● 家康を「征夷大将軍」にするための天海の暗躍

第五章 家康の死を乗り越えて
● 家康の神号「大明神」と「大権現」を巡る論戦
● 最晩年の徳川家康と、天海僧正との静謐な時
● 「日光東照宮」が「北辰」であり「太陽神」である謎

第六章 日光東照宮と天海
● 「日光」の「光」は「光秀」から取り入れた?
● 傍証の白眉、「明智平」という地名
● 光秀の起承転結を表現する直線「光秀=天海ライン」
● 東照宮の配置と「不死のライン」
● 豊臣秀吉が計画し、徳川幕府が決定づけた光秀の虚像

ということで、詳細は同書をお読みいただきたいが、纏めると「光秀は山崎の合戦を生き延び、比叡山延暦寺焼き討ちで死んだ僧侶・随風になり替わり天海と名乗った。やがて家康の配下に入り、宿敵豊臣家滅亡のために暗躍。三代将軍家光は明智家係累春日局と家康との実子。家康亡き後、天海は、江戸四神相応の風水都市化、日光東照宮の造営、参勤交代制度などを整え、家光の時代が盤石になったのを見届けて死去。五代将軍綱吉の元禄時代、下克上を否定する徳川朱子学によって、光秀天海の事実は隠蔽された」となる。この説によると家康は本能寺の変の真相を当然知っていたと考えられる。
「百花深処」 <「神国日本」論 II>(2019年03月04日公開) |目次コメント(0)

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