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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <「神国日本」論>

 『戦国日本と大航海時代』平川新著(中公新書)という本を読んだ。副題は「秀吉・家康・正宗の外交戦略」。ポルトガルとスペイン、特にイエズス会、フランシスコ会といったキリスト教カトリック会派の細かな動き、信長・秀吉・家康それぞれの対応、後発のオランダやイギリスの巻き返しなど、列島と西欧諸国との関係が分かりやすく纏めてあり、この時代に関する知識の解像度が上がった。まず本カバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

15世紀以来、スペインやポルトガルはキリスト教布教と一体化した「世界征服事業」を展開。16世紀にはアジアに勢力を広げた。本書は史料を通じて、戦国日本とヨーロッパ列強による虚々実々の駆け引きを描きだす。豊臣秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか。徳川家康はなぜ鎖国へ転じたのか。伊達政宗が遺欧使節を送った狙いとは。そして日本が植民地化されなかった理由は――。日本史と世界史の接点に着目し、数々の謎を解明する。

(引用終了)

 終章「なぜ日本は植民地にならなかったのか」の最後、徳川政権がキリスト教布教の全面禁止を行い、布教にこだわるスペイン・ポルトガルと断交、長崎への貿易集中と幕府管理のなかでイギリスはオランダとの市場競争に敗れて撤退、オランダは出島に封じ込められ日本の管理貿易に従順となったことを記した後、著者は次のように書く。

(引用開始)

 イギリスやオランダも海洋大国である。これら両国が唯々諾々と幕府の指示に従ったのは、幕府が強大な軍事力を有していたからであった。東南アジアや南北アメリカ、それにアフリカなど、ヨーロッパ列強に征服された地域には国家的軍事組織がないか、あったとしても弱かった。そのためにヨーロッパ列強の植民地にされたり、交易の主導権を握られてしまった。そこが日本との大きな違いになった。
 日本の戦国時代は、軍事力を巨大に蓄積した時代であった。秀吉・家康の統一政権は、軍事大国としての日本を確立した。なぜ、秀吉や家康が西洋列強から畏敬をこめて「皇帝」と呼ばれていたのか。なぜ日本が「帝国」といわれるようになったのか。そこには、こうした日本の実力的根拠が存在したからであった。
 戦国時代というと、群雄割拠の時代であるとして戦国武将たちの華々しい活躍に目を奪われる一方、多くの家臣が主君や領土のために命を落としたり、領民が戦のために生活を破壊された不毛な時代であるといった評価がなされてきた。そうした視点からの評価はもちろんあってもよいし、否定するつもりもない。だが、本書で紹介してきたような史実を前にすると、日本に戦国時代が存在して大名たちが軍拡競争をおこない、それを信長・秀吉・家康が統一して巨大な軍事大国を一気に創出したからこそ、西洋列強からの侵略と植民地化を防衛できた、という解釈も十分成り立つ。戦国期における国家権力の分散状況を信長・秀吉・家康の三大で克服できたからこそ、日本は植民地にならなくてすんだのではないか、ということである。

(引用終了)
<同書268−269ページ(フリガナ省略)>

 一連の出来事の中で注目すべき点は、徳川幕府が「キリスト教の布教=スペインの脅威」から列島を守るために、「神国日本」論を持ち出したことである。平川氏は、家康がメキシコ副王宛の書簡のなかで「わが邦は神国であるからキリスト教の布教を禁止する」と明記した原文箇所を引用し、

(引用開始)

 ここにいたって、幕府がそれまでの容教姿勢を放棄したことがはっきりとわかる。「わが邦は神国なり」という言葉は、秀吉も述べていた。「神国」思想自体はもともと日本に存在しているが、対外関係のなかでキリスト教と対置するかたちで位置づけなおされている。すなわち、「キリスト教の布教=スペインの脅威」を排除する理由として「神国」論が再定義されたのであった。その意味でここでいう「神国」論は、禁教を正当化する、国内外向けの説得言語だったといってよい。

(引用終了)
<同書 161ページ>

と書く。説得言語としての「神国日本」。

 前回<一所懸命と天下布武>の項で、“本能寺の変のあと、秀吉と家康は、中央集権化はそのままにして、朝廷との融和を図った。秀吉は近衛前久の猶子となることで関白に任官し、京都を本拠とした。家康は(下克上を防ぐために)儒教による天命と中華思想を導入したけれど、征夷大将軍として天孫始祖(神道)秩序に復帰した”と記した。秀吉と家康における朝廷との融和は、説得言語としての「神国」論と踵を一にする。

 しかし、家康が儒教と神道両方を統治思想に導入したことで、徳川統治正当性の理論付けは弱くなった。<一所懸命と天下布武>の項で続けて“その行き着く先は、ブログ『夜間飛行』の「内的要因と外的要因」などで描いてきたが、信長のユニークな統治思想ミックスは、秀吉・家康には扱いきれなかったのだろう”と記したが、信長であれば「キリスト教の布教=スペインの脅威」に対抗するのに「神国日本」は使わなかったのではないか。宗教と外交・防衛とは切り離して考えただろう。

〇 中央政治(外交・防衛・交易)は預治思想による集権化
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)は天道思想による分権化
〇 文化政策(宗教・芸術)は政治とは切り離して自由化

 当初説得言語として用いられた「神国日本」論。<国学について>の項で書いたように、この「神国」論は、崎門学と国学において「至高」=天皇の一点においてシンクロし、幕末の尊王討幕思想として結実する。当時の尊王攘夷論と秀吉・家康による伴天連追放ロジックとの同型性を見よ。『夜間飛行』「神道について」の項で見たように、「神国日本」は明治維新以降さらに「国家神道」に利用され、やがて日本を破滅に導く。秀吉・家康と信長の統治正当性に関する発想の違いは重大だったのだなあ、とつくづく思う。
「百花深処」 <「神国日本」論>(2018年08月09日公開) |目次コメント(0)

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