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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <一所懸命と天下布武>

 以前<預治思想について>の項でみたように、信長の預治思想は、戦国武士たちの本領死守を否定、信長が天命によって預かった天下への彼らの服従を求めるものであった。前者を<一所懸命>、後者を<天下布武>という言葉に代表させ、戦国時代から徳川時代における地方分権と中央集権化について考えてみたい。天下布武という言葉は、ネットで調べてみると「天に恥じない節度を保って自由に我が道を歩む」との意味(「平成談林」)で、朝廷や宗教の権威を否定した信長の天下人たる決意表明だという。

 まず、前回の<騎馬民族と農耕民族>の項などを参考にしながら、戦国時代末の各派統治のポイントを押さえておこう。

戦国大名:天道思想に基づく領国統治(一所懸命)。兵農未分離。
織田信長:預治思想に基づく列島統治(天下布武)。兵農分離。
朝廷および足利幕府:神道(天孫始祖)と農耕民族的律令体制のミックス。

尚、列島の父性の源泉は、

(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
(4) 西洋文化=キリストと合理思想

騎馬民族と農耕民族の特徴は、
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騎馬民族:天から降ったという始祖伝説を持つ、合議制、能力重視、移動性強い、女性の地位が高い、相続は選ばれた家系のなかで争われる、攻撃的

農耕民族:天は道徳の基準で抽象的な存在、中華思想(排他的)、土地重視、定着性強い、女性の地位は低い、長男相続、保守的
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 ここでユニークなのはやはり織田信長の立ち位置だろう。預治思想において、神道(天孫始祖)ではなく農耕民族的な天命(天は道徳の基準で抽象的な存在、中華思想)を至高としながら、統治方法においては、兵農分離で「能力重視、移動性強い、攻撃的」といった騎馬文化をベースにしている。(2)の乗船文化と(4)の合理思想の影響だろうが、他の戦国大名や朝廷・足利幕府にはない思想ミックスとなっている。

 信長登場前の戦国時代は、騎馬文化と農耕文化の争いの時代だったというが、

戦国大名:天道思想に基づく領国統治(一所懸命)。兵農未分離。
朝廷および足利幕府:神道(天孫始祖)と農耕民族的律令体制のミックス。

ということで、戦国大名は実質的に地方分権を担い、朝廷・足利幕府は中央で騎馬文化の権威だけを握りつつ、名目的な律令制によって戦国大名から上がりを受け取る、という馴れ合いの時代でもあった。争いは、騎馬文化と農耕文化との間というよりも、戦国大名同士の領土奪い合いと、朝廷・足利幕府内部での足の引っ張り合い、そして両者間の合従連衡にあった。

 <預治思想について>の項でみたように、(4)の脅威を前にして、この馴れ合い状態から脱するにどうしたらよいかと考えたのが信長で、彼が編み出したのが預治思想による中央集権化だったわけだ。

 本能寺の変のあと、秀吉と家康は、中央集権化はそのままにして、朝廷との融和を図った。秀吉は近衛前久の猶子となることで関白に任官し、京都を本拠とした。家康は(下克上を防ぐために)儒教による天命と中華思想を導入したけれど、征夷大将軍として天孫始祖(神道)秩序に復帰した。その行き着く先は、ブログ『夜間飛行』の「内的要因と外的要因」などで描いてきたが、信長のユニークな統治思想ミックスは、秀吉・家康には扱いきれなかったのだろう。

 この間、置き去りにされたのが、一所懸命的な地方分権思想であった。それを憂いたのが<武士の土着>の項で描いたところの荻生徂徠だったが、彼の提言は徳川幕府の採用するところとはならなかった。

 天下布武は、預治思想に基づく兵農分離による中央集権化、一所懸命は、天道思想による兵農未分離の地方分権である。ここで、<信長の城>の項の最後に言及した、「もし本能寺の変なかりせば」について考えたい。そこでは「信長が朝廷を主導し、信忠が武家を束ねるという政治体制」を紹介したが、列島における騎馬文化と農耕文化、乗船文化、さらには西洋文化の影響などを考慮すると、信長は、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)は預治思想による集権化
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)は天道思想による分権化
〇 文化政策(宗教・芸術)は政治とは切り離して自由化

という形をとった可能性もある。この場合、安土は中央政治の首都、京都や長崎は文化政策の宗教・芸術都市、大坂や江戸などは地方政治の地域都市ということになるだろう。

 さらに、<新しい思想>の項でも書いたことだが、中央と地方政治との連携は、本場中国のような科挙制度による官僚の郡県制ではなく、「預治」を「民意を預かり治める」意味(天命=民意)として、代議制を導入する。そして、<一所懸命>な地方の声を、<天下布武>の政策に生かす。そもそも騎馬文化は合議制という特徴を持っているから、信長はそれを上手く利用してここまで統治思想を進め得たのではないだろうか。

 ここで視点を変えて、複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比から、<一所懸命と天下布武>について考えてみよう。A側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。父性の源泉、

(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
(4) 西洋文化=キリストと合理思想

は、どれも勝れてA側の思考法だが、中央政治、地方政治、文化政策の三者におけるB側への配慮の重要度を比べると、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)はB側への配慮小
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)はA側とB側のバランス重要
〇 文化政策(宗教・芸術)はB側への配慮大

と考えることができる。中央政治は「公(Public)」―「都市」中心で事を運ぶことが可能。地方政治は「公(Public)」と「私(Private)」のバランス、「都市」と「自然」との調和が求められる。文化政策は「時間重視」の考え方と「関係原理」への配慮が不可欠だ。

 豊かな自然環境と日本語を母語とする列島の現場ではそもそもB側が強い。地方政治の現場においてA側の力を維持するには、<中世武士の思想>で引用した『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)の、

(引用開始)

 武士は、戦闘を職能とする武装自弁の集団として登場した。「兵」は武具を与えられ、コマとして動かされる者であるから、両者は同じではない。中世の武士たちは、「弓矢取る道」「武者の習」などと呼ばれる独特な規範をもつようになっていた。「名」を重んじて「恥」を恐れ、軍功を競い、同輩に後れをとることを嫌う。それは「武辺の意地」を立てる、「おのれの一分」を立てるというような剛直な精神でもあって、その社会的な基盤は、在地に根付いて館を構え所領を支配し、一族郎党を抱えて武士団を作っていることにあった。所領の支配については独立して不可侵であり、誰の干渉をも許さない独立性を誇った。
 このような武士によって政治が運営される中から、法体系は「道理」に基づくべきものであり、政治家は公平・無私であれというような思想が生まれてきた。(中略)超越者への畏怖、物事への洞察、武士としての強み、周囲への配慮、人間的な魅力……これらを兼ね合わせるのが、あるべき武士の棟梁なのである。
「文」や「徳」に依拠する東アジアの正統的な価値観からすれば、戦闘者の世界から独自の思想が生み出されてくるなど、およそ考えられない。しかし日本では違っていた。武士はいつまでも単なる戦闘者ではなく、為政者でもあったからである。

(引用終了)
<同書42−43ページ(フリガナ省略)>

といった、<一所懸命>な武士の力が有効だと思う。
「百花深処」 <一所懸命と天下布武>(2018年07月24日公開) |目次コメント(0)

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