『織田信長の城』加藤理文著(講談社現代新書)という本を面白く読んだ。発行は2016年12月。概要把握のためにその紹介文を、帯表紙、カバー表紙裏、帯裏表紙の順で引用しよう。
(引用開始)
小牧山城・岐阜城・安土城――
信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かす
信長がめざした城づくりのすべて
従来、安土城こそが近世城郭の嚆矢で、以降の城郭建築の礎と考えられてきた。だが、近年の発掘調査の進展や城郭研究の深化によって、信長はすでに永禄六年(一五六三)の小牧山築城段階から、城の革命に乗り出そうとしていたことが明らかになってきた。(中略)本書は、現段階で判明する、小牧山城、岐阜城、安土城の姿を、文献史料や発掘調査資料等から検討し、確実な部分と不明確な箇所を再確認し、その真実の姿を明らかにしようとするものである。(中略)規制・許認可を含む信長の城郭政策の具体的内容に踏み込むことによって、信長がめざした城づくりのすべてを本書にあますところなくまとめてみた。――「はじめに」より
天守構築や金箔瓦使用の規制・許認可、破城・築城――。城郭政策の視点から「戦国の覇王」の実情に迫る!
<本書のおもな内容>
序章 尾張統一以前の城
第1章 守護所・清須への入城
第2章 すべては小牧山城から始まった
第3章 政治機能を拡充させた岐阜城
第4章 畿内掌握のために築かれた城
第5章 統一のテーマパーク安土城
第6章 信長の城郭政策
終章 信長による統一政権の姿
(引用終了)
この本を読むと、尾張の小牧山城、美濃の岐阜城、京都の二条城、琵琶湖西岸の宇佐山城、近江の安土城と進む築城の詳細がよく分かる。第5章にある安土城下の様相。
(引用開始)
『信長公記』天正四年の条に、安土城下の様子が記されている。以下要約してまとめてみると、西から北にかけては琵琶湖が漫々と広がり、船の出入りが賑々しい。南には村々の田畑が平坦に続いている。東の観音寺山の麓には街道が通っていて、往来の人々が昼夜絶えることがない。安土山の南には入り江が広々と入り込み、山下には家々が並んでいる。四方の景色も町の賑わいもすべてが揃い、まさに花の都をそっくり移したかのようである。
安土築城が開始された翌五年、信長は一三ヵ条からなる「掟書」を安土城下町に出している。
第一条 安土城下における商工業の自由の保障(楽市楽座)
第二条 中山道を通る商人の安土への寄宿命令
第三条 普請役の免除
第四条 伝馬役の免除
第五〜七条 火災および城下内での犯罪行為に対する罪状など
第八条 城下内での徳政免除(略)
第九条 安土移住に対する待遇保障
第一〇条 喧嘩・口論・国質・所質・押し買い・押し売りの禁止
第一一条 譴責使、打入は届け出制とし許可を得ること
第十二条 家並役の免除
第十三条 近江国内の馬の取引は安土で行うこと
以上が一三条の要約である。
自由な商取引の保障、住民負担の免除、城下町での安全の保障と治安維持などを打ち出すことで、人々を城下町に集めようとしたのだ。また、不当な権力や暴力を許さない空間であることも強調し、これらのことを信長が保証する内容であった。信長は、自由で安寧な街を造り、そこへ集まる人々を自らの権力の下に掌握しようとしたのである。
フロイスは、<城がある一つの新しい都市を造築したが、それは当時、全日本でもっとも気品があり(中略)、建物の財産と住民の気高さにおいて、断然、他のあらゆる市を凌駕していた><一見海のように大きく豊かな湖を(一方に)ひかえ、他方ではきわめて豊饒な米作地を有する平野に位置している>と記している。
町の規模については、<すでに市は一里の長さにおよび、住民の数は、話によれば六千を数えるという><同山(安土山)の麓の平野に庶民と職人の街を築き、広く真直ぐに延びた街路(中略)を有する>ともしている。
この記録通りとすると、城下町は四`ほどの長さに広がっており、真っ直ぐに延びた広い街路があり、庶民と職人が集住していたことになる。
<同書 216−218ページ(フリガナ省略)>
繁栄する安土城下。当時に戻って訪れたくなるではないか。信長の築城は、尾張の一戦国大名から天下布武へと考えを高めてゆく過程と同期している。『信長公記』などの副読本として一読をお勧めしたい。
もし本能寺の変なかりせば、という歴史のifは誰しもが考えることだが、この本の著者は信長が望んだ官位について、次のように推理している。
(引用開始)
義昭追放後の官位の昇進の在り方、改元要請、蘭奢待の切り取り等から、新たな室町殿となることであった可能性がもっとも高い。つまり信長は、当初は征夷大将軍となることを望んでいたのである。
だが、五月の朝廷からの任官提案に対し、六月まで正式な返答をしていない。このことから、征夷大将軍以外の任官も視野に入れるようになった気がしてならない。
正親町天皇に対する度重なる譲位要求は、朝廷を含め完全に信長の支配下に置こうということであろう。信長は、自らは「太政大臣」となり、嫡男信忠を征夷大将軍とすることで織田幕府を開設し、公家および武家の双方の頂点を抑えることをめざしていたのではあるまいか。
自らが征夷大将軍となった場合、そのまま嫡男信忠に職を譲ることは可能である。しかし、征夷大将軍を辞した信長が「太政大臣」に任官することは極めて考えにくい。嫡男信忠を武田攻めの総大将にしたことも、征夷大将軍就任に向けた一手のようにも思える。また、左大臣任官辞退も、信忠の任官を優先させたかったためとも捉えられている。
信長は、鎌倉将軍や室町将軍とは異なり、武家の棟梁でありながら、天皇を傀儡とし朝廷までをも思いのままに操る実質的な支配体制を頭に思い描いていたのであろう。
毛利攻めが終了すれば、ほぼ全国統一が完成することになる。圧倒的な軍事力と経済力を背景に、自らは「太政大臣」となり、信忠を「征夷大将軍」に就けようとしたのである。
本能寺の変がなければ、毛利平定後、大坂に四海統一を記念する居城を築き自らは移り住み、嫡男信忠を征夷大将軍とし、正式に織田弾忠正家を武家の棟梁の家格にまで押し上げたはずである。信長が朝廷を主導し、信忠が武家を束ねるという政治体制こそが信長がめざしていた政権の在り方であった。
いずれにしても、あくまで推論であって、すべては本能寺の変により夢幻となってしまい、証明する術もない。
(引用終了)
<同書 278−279ページ(フリガナ省略)>
信長に関しては、これまで
<
信長における父性>(7/27/2017)
<
信長の舞>(7/30 /2017)
<
預治思想について>(1/11/2018)
<
新しい思想>(2/27/2018)
と書き綴ってきた。併せてお読み戴きたい。