ここまで、列島の統治思想を、戦国時代に主導的だった<
天道思想>、信長の<
預治思想>、徳川時代の<徳川朱子学>と辿ってきた。また、天道と民意とを結びつける<
新しい思想>の可能性を、徳川時代の思想家たち、安藤昌益、三浦梅園、伊藤仁斎、荻生徂徠、新井白石らに探ってきた。
列島の父性(国家統治能力)の源泉、
(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
(4) 西洋文化=キリスト教と合理思想
において、天道思想は(1)、(2)が主、(3)が従。預治思想は天道思想に(4)が加わったが、キリスト教禁制・鎖国の徳川朱子学は(3)が主、(1)が従。(2)は特に関西において商業の思想的基盤として、(4)は長崎の出島を前線に蘭学として、共に傍流を形成。(1)が弱まり(2)と(4)が傍流に止まった徳川時代、天道と民意とを結びつける新しい思想はなかなか生まれなかったようだ。
列島統治思想のユニークさは、中国にも西洋にもない、中世武家政治が培った(1)と(2)があることだ。関東を拠点にした徳川家康は(1)を主にして江戸に幕府を開いた。しかし時代が下るに連れて(1)は弱まり、徳川朱子学の(3)が主になってゆく。儒教による官僚政治。といっても、本場中国のように科挙制度があるわけではないから、どうしても馴れ合い政治になる。(1)をベースに導入された「
家(イエ)」システムもうまく作動しなくなり、将軍も八代吉宗のあとはバランス人事で選ばれるようになって鳴かず飛ばずが続く。<新しい思想>、西洋の近代国家にも伍してゆけるような統治理論を、列島の内側から芽生えさせるには、
@(1)をどう再興させるか。
A(2)と(4)をどう統治に生かすか。
という二つの課題をクリアーしなければならなかったと思う。
@について、『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)から、荻生徂徠の『政談』にある考え方をみよう。『政談』は将軍吉宗の諮問に答えたもの。
(引用開始)
実行すべきは、万人の土着、とくに武士の土着である。武士が都市生活者となったから、箸一本でも金で買うことになり、貨幣・商品・市場の力が増長した。また、武士が農村からいなくなったことが農村の治安を悪化させ、武士の統治責任を曖昧にさせている。武士は、その発生からして在地の者であり、民を、親が子を養い育てるように世話しなければならない。そういう濃密な関係が社会の根底に確固としてないと、社会は貨幣・商品・市場の力によっていいように蝕まれていく。
武士の土着によって、希薄化(匿名化)した人間関係の進行に歯止めをかける。その上で、古代中国の先王が行ったように、王者としての徳川将軍が、人情・風俗の変化をあらかじめ読み込んで「礼楽」の制度を立てるべきなのである。眼前の制度や礼楽は、一見すれば整っているようにも映るが、それらはすべて惰性としてそこにあるものばかりである。本来ならもっと早く、元禄期の激変の前に制度が確立されることが望ましかったが、まだ最後のチャンスとしての可能性はあると徂徠は説く。
(引用終了)
<同書 100−101ページ(フリガナ省略)>
在地への土着による武士思想の再興。棟梁の復活。しかしそれは一方で地方の興隆を促すから、徳川家に対する下克上を誘発しかねない。このアドバイスは政策に取り入れられなかったようだ。
荻生徂徠は人間社会の非合理性を前提にして、古代中国と同じような聖人政治を幕府に希求した。徂徠の儒教「天人合一」に関する考えについては<
伊藤仁斎と荻生徂徠>の項で見たが、「天人合一」とは違った角度から、つまり人間社会の非合理性そのものから、「天道」=「自然現象」=「民意」といった論理展開を紡ぎだすことはできなかったか。徂徠の発想が、「衆庶民が非合理であれば、気ままに変化する天候と同じように民意も気ままに変化するだろう。将軍が、人情や風俗だけではなく民意そのものをあらかじめ読み込むことができれば、武の暴走(下克上)を防ぐことができ、政道はさらに安定するだろう」という具合に展開すれば、武士の土着から先、士農工商各層の代表を選出し意見を吸い上げるといった<新しい思想>に近づき得たかもしれない。
『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)には、@についてこの他、第2章「泰平の世の武士」に、山鹿素行、大久保忠孝(『三河物語』の著者)、山本常朝(『葉隠』の著者)らの考えの紹介がある。新井白石も武士意識が高かった。この辺り、さらに考えてみよう。