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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <新井白石>

 <新しい思想>の項で考えた「天道」=「自然現象」=「民意」という展開に関して、前々回<安藤昌益と三浦梅園>、前回<伊藤仁斎と荻生徂徠>と見てきたが、今回は、新井白石(1657−1725)について考えてみたい。『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)で白石は、第6章「啓蒙と実学」に、貝原権益(1630−1714)、宮崎安貞(1623−1697)と並んで紹介されている。

(引用開始)

 益軒から一世代ほど遅れて、徂徠とほぼ同時代人として生きた新井白石は、益軒も徂徠もしらない広い世界を知っていた。一七〇九(宝永六)年、前年に屋久島に上陸したイタリア人の宣教師であるジョバンニ・シドッチを小石川の切支丹屋敷で訊問した白石は、江戸参府のオランダ商館長にも何度か面会し、そうした機会に集めた情報をまとめて『西洋紀聞』三巻を著した。ただしこの書は、キリシタンに関わる記述が含まれていたため、公刊されず写本で伝わった。白石はまた、順にヨーロッパ・アフリカ・南アメリカ・北アメリカを取り上げ、地理・風俗・歴史・産物などを網羅的に紹介した地誌の書である『采覧異言』五巻を著したが、これは公刊されて広く流布し、江戸期の知識人に大きな影響を与えた(一八〇二〔享和二〕年、山村才助が地動説に立って『訂正増訳采覧異言』を著すことになる)。(中略)
 啓蒙的理性の持ち主である白石は、歴史に対しても徹底して人間の責任を求めた。歴史の展開は、神の叡智や不可知の運命の力などによるのではなく、あくまで人間それ自体の問題だと白石は述べて揺るがない。(中略)白石は「神」に言及することをしない。ここには、「日本国の人民」の生活を、為政者の責任で安定させてこその政治だという儒教的な理念がある。
 幕政改革において「鬼」とも恐れられた白石の闘争は、政治とは何かという点でまったく自覚を欠いて武威と慣例に秩序を委ね、権勢と保身にしか関心のない幕府政治家にも向けられていただろう。頼朝や泰時に匹敵する人物が出て、儒教的な理念に立った政治を実行しない限り、「武家の代」に「六変」目が訪れない保証は何も無いからである。

(引用終了)
<同書 113−118ページ(フリガナ省略)>

白石が政治顧問として六代将軍家宣と七代幼将軍家継に仕え、「正徳の治」に関わったことは広く知られている。

 <宗教・思想基本比較表>では、徳川朱子学の「至高」を天皇とした。しかし、<国学について>の項でみたように、白石は、徳川の支配を実質的な新しい王朝の成立(儒教の教える易姓革命)と見ていた。では白石は天皇をどう見ていたのか。それについて、『折りたく柴の記』新井白石著(中公クラシックス)の巻頭にある藤田覚氏の解説「学者のまえに武人だった人」から引用したい。

(引用開始)

 白石は、武家国家のなかの天皇をどのような存在として理解していたのか。白石は、新しい宮家の創設を提言し、それが実って閑院宮家ができ、七代将軍家継の妻に零元天皇の皇女を迎える、いわゆる降嫁が決定された(家継夭折のため、実現をみることなく終わった)ことを、「この国に生まれて、天皇の御恩にむくいたことのことの一つ」と書くように、白石はいわゆる尊王論者である。しかし、「わが御祖(家康)は、天から勇気と知恵を授かり、天下を統一なされた」(九八頁)と述べるように、徳川家による天下統一や全国支配の根拠を「天」におき、けっして十八世紀末以降のように天皇からの大政委任に求めたりしない。だが尊王を説く。それは、「元享(元弘)・建武のあいだ(後醍醐天皇の治世)、皇統がすでに南と北に分かれ、南朝はまもなく絶えてしまわれた。北朝はもともと武家のために立てられたものであるから、武家の治世と盛衰をともにされるべきである」(一〇〇頁)という理由からである。水戸藩の徳川光圀がはじめた『大日本史』も、南朝こそ正当な天皇という認識であり、それが当時の常識であった。白石も同じである。北朝の天皇(すなわち当時の天皇)は、武家が立てた天皇なのだから、「共主」であり武家政権と盛衰をともにする運命共同体の関係にあるという。

(引用終了)
<同書 7−8ページ(フリガナ省略)>

「共主」というのは面白いが、実権力の二重構造化とも見える。

 「学者のまえに武人だった人」の中で藤田氏は、白石の考えの特徴を、第一に確固とした武家国家観と武士(武人)意識、第二に仁政の強調、第三に役人倫理の強調、第四に司法の重視、と纏めておられる。白石は、列島の父性(国家統治能力)の源泉、

(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
(4) 西洋文化=キリスト教と合理思想

において、(2)には弱かったかもしれないが、(1)、(3)、(4)に通じていた。彼は将軍の顧問を務め幕府の方針に影響力を及ぼせる立場にあった。だから白石には、織田信長の「預治思想」へ一旦立ち戻り、そこから徳川時代以降の「至高」を考えてほしかった。『新井白石「読史余論」現代語訳』横井清訳(講談社学術文庫)を読むと、彼は信長について「総じてこの人は、生まれつき残忍な性格で、詐術の力によって志をとげた」(320ページ)と手厳しいのだが。

 <預治思想について>の最後に“天道思想からたどれば、戦国時代→織豊時代→徳川時代において、列島の「天」は「自然現象」→「天命」→「天皇」と変遷していったことになる”と書いたその先、<新しい思想>でいう「天道」=「自然現象」=「民意」へ辿り着く道筋。白石であればいつかそれを考え、幕府の方針とさせることができたのではないか。

 ただし、そのためには白石の幕府への参与がもう少し長い必要もあったろう。白石が登用されたのは、六代将軍家宣時代と七代幼将軍家継時代、1709年から1716年までの7年間だけ。家宣の治世は3年5か月、4歳で後をついだ家継は風邪をこじらせてわずか8歳で亡くなってしまう。紀州藩主徳川吉宗が八代将軍に就任すると白石は罷免された。
「百花深処」 <新井白石>(2018年04月18日公開) |目次コメント(0)

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