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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <安藤昌益と三浦梅園>

 以前<新しい思想>の項で、“戦国時代までの天道思想を深めて、「天道」=「自然現象」=「民意」といった展開を考える者はいなかっただろうか。人間も自然の一部なのだから誰か考え付いていても良さそうなものだが。さらに研究してみたい”と書いたが、『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)にそれらしき発想を探してみると、第7章「町人の思想・農民の思想」にある安藤昌益、第9章「蘭学の衝撃」にある三浦梅園らの発想がそれに近いように見える。三浦梅園に関しては<蘭学について>の項でその弁証法的発想を紹介した。まずは安藤昌益から。

(引用開始)

 安藤昌益(一七〇三〔元禄十六〕年〜一七六二〔宝暦十二〕年)は、秋田藩領の二井田村生まれ、八戸で医者として暮らし、二井田村に戻ったらしい。『自然真営道』(三巻)が、昌益の著書としては唯一、一七五三(宝暦三)年に刊行されている。主著とすべきは稿本『自然真営道』一〇一巻九三冊であるが、関東大震災で大半を焼失してごく一部が現存するにとどまり、他に『統道真伝』五巻が写本で遺されている。(中略)
 昌益は、夫婦が営む「直耕」生活の集合としての「安衣安食」の社会(衣食に不安のない暮らし)を理想としたが、それを壊したのが知識人であり、その典型が儒教にいうところの聖人だとして、類例のない厳しい聖人批判を繰り広げる。(中略)
 万人直耕の世界には君臣上下がなかったが、そこに父子(家父長制的な父子関係)・君臣などの「私作の五輪」を持ち込み、それを基準に世を正すことが政治だと考えるから「乱世」が絶えないと昌益は主張する。孔子は、政治とは何かと尋ねられて「君君、臣臣、父父、子子(君、君たり、臣、臣たり、父父たり、子、子たり)」『論語』)と答えていた。君臣関係と父子関係を、その本来の姿にあるように導くのが孔子の政治であるが、君臣上下を否定し、夫婦を人倫の基本とする昌益は、それを真っ向から否定する。

(引用終了)
<同書 126−129ページ(フリガナ省略)>

人間が自然の一部であることを前面に押し出した考え方。昌益は「天地」のことを「転地」と書いたりする。それは当時幕府が正学として導入した徳川朱子学の母体である中国漢字文化から少しでも離れようとした形跡のようにも見受けられる。

 三浦梅園(1723−1789)については、<蘭学について>の項で引用した文章の前段を引用したい。

(引用開始)

 梅園の方法的な自覚の鋭さは、「多賀墨郷(卿)にこたふる書」に窺うことができる。私たちが「天地の条理」を捉えられないのは、「なれ」ることで(「見なれ」「聞きなれ」「触なれ」)不思議を不思議と思わなくなってしまうからだ。天地の事物を事物のままに即物的に捉えて、それは何故かと疑うことが大切だと梅園は言う。簡単に「合点」してはいけない。(中略)
 梅園は、こんなことを言う。春になって花が咲かないと、人は不思議に思ってそれを話題にするが、春になれば花が咲くことを不思議に思うことが大事ではないか。春が来れば花が咲く「筈」だ、これで済ませては話にならない。「此れ天地をくるめて一大疑団となしたき物に候」と述べる梅園は、大胆にもこう言う。
<天地達観の位には、聖人と称し仏陀と号するも、もとより人なれば、畢竟我講求討議の友にして、師とするものは天地なり。>

(引用終了)
<同書 160−161ページ(フリガナ省略)>

「天地」=「自然現象」を師としようとする考え方。梅園はここから弁証法的発想で天地の条理を捉えようとした。

 第7章にある石田梅岩や二宮尊徳の考えも見ておこう。二人はともに農民としての立場から社会について考える。

(引用開始)

 石田梅岩(一六八五〔貞享二〕年〜一七四四〔延享元〕年)は、丹波国の中農の次男に生まれ、十一歳で京都の商家に奉公に出たが、主家の没落により帰郷、二十三歳の時に再び上京して、奉公しながら独学で儒教・仏教・神道を学んだ。(中略)
 梅岩は、「人は全体一箇の小天地なり。我も一箇の天地と知らば何に不足の有るべきや」と言う。例えば呼吸は、天地(大宇宙)の気の循環を小宇宙としての自分が小宇宙というスケールで取り込むことであって、自己と天地は一体なのである。その一体性を梅岩自身は、生死や主客の対立を超えた禅の悟り(見性)に近い形で体認している。しかし梅岩は、それを世俗外の世界での悟りとさせるのではなく、具体的な役割を担い合って生きる世俗の場で深めようとする。(中略)
 ここから「道は一なり。然れども士農工商ともに各行う道あり」という梅岩の思想が生まれた。そしてそれは、社会についての新しいイメージをもたらす。
<士農工商は天下の治まる相となる。四民かけては助け無かるべし。四民を治め玉うは君の職なり。君を相るは四民の職分なり。士は元来位ある臣なり。農民は草莽の臣なり。>
 描かれているのは、君―臣―民という社会構成ではない。また治者の知識労働と被治者(庶民)の肉体労働との断絶した社会像でもない。ここに押し出されるのは、それぞれの「形」をもつ「士農工商」の「四民」は職能として横に並んで、いずれが欠けても社会の必要が満たせないという見方である。(中略)
 二宮尊徳(一七八七〔天明七〕年〜一八五六〔安政三〕年)は、相模国栢山の農家の長男に生まれ、若くして両親を相次いで失ったが、没落した生家の再建を果たし、次いで小田原藩家老の服部家の家政立て直しにも成功し、関東各地を中心に荒廃した農村の復興に手腕を発揮した。
 自然の理法を知り、それに従いそれを生かしながら、そこに人間の経験的な知恵を働かせ、「作為」(労働)を加えることで「人道」がはじめて成立する、こう尊徳は主張する。その「人道」は、倫理規範ではなく、なにより人々の生活である。(中略)
 尊徳はまた「推譲の道」として、裕福な農民が財を使い尽くすのではなく、「親戚朋友の為に譲る」こと、「郷里の為に譲る」ことの意義を力説し、「老幼多き」「病人ある」「厄介ある」家に財貨を分け与えることを勧めている。(『二宮翁夜話』)。武士や町人からは、郷里を富ませるために自分の財貨を生かすという思想は出てこない。それは、農民の生活が孤立的なものではなく相互扶助的なもので、繁栄は一村全体の繁栄でなければ本物ではないと考えられたからである。

(引用終了)
<同書 120−131ページ(フリガナ省略)>

梅岩の「職能」という考え方や尊徳の「推譲の道」、どちらも個人と社会のつながりを見る上で大切である。

 以上、昌益、梅園(や梅岩、尊徳)の考えを見てきたが、いずれも、「民意」を上手く掬い上げる為に、士農工商各層代表の選出や、効率向上の為に地方分権を推し進める、といった統治的発想にまで到達したわけではないようだ。昌益や梅園は、医者として、複眼主義でいうA側の都市・政治よりもB側の自然・人体(健康)により関心があったようだし、梅岩や尊徳は、農民としての立場から実直に社会への貢献を考えている。いづれも大切な思想ではあるが。儒教にはもともと「天人合一思想」(天と人が一体化するという基本概念)がある。だから(列島の近世において)どこかに、「天道」と「民意」とを繋げて考える思想家がいたのではないか。研究を続けたい。
「百花深処」 <安藤昌益と三浦梅園>(2018年04月01日公開) |目次コメント(0)

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