前回の<
宗教・思想基本比較表>に沿って、徳川時代の国学の基本について考えてみたい。その前に、まず正学であるところの徳川朱子学について、比較表から再掲しておこう。
<徳川朱子学>
「対象」:日本国
「至高」:天皇
「教義」:神仏儒などの宗教
「信仰」:教義を守る(儒教の教義を守る)
「特徴」:政治による集団救済。因果律。
以前<
中世武士の思想>や<
近世の「家(イエ)について>で引用した『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)にある、本居宣長(1730−1801)の章(第8章)から引用する。
(引用開始)
国学は、和歌を中心とした文学の革新運動から起こった。それまでの和歌の鑑賞や解釈は、常上(昇殿を許された貴族。ここでは古今伝授を受けた歌学の流派)の秘伝として伝えられ、その権威は有職故実の学問によって守られていた。こういう伝統的学問に対して、知識の公開性と相互批判(師弟であれ同輩であれ)を重んじながら、立ち戻るべきものとしての日本の「古」を、文献の正確な解読によって明らかにしようとするのが国学である。(中略)
徳川将軍の権力が、何に正当性の根拠を置くのかは、実ははっきりしていなかった。並びない武威、公儀のご威光、内乱の時代に終止符を打って泰平をもたらしたという圧倒的な事実、おそらくそれらが、それ以上の根拠を問う必要性を人々に感じさせなかったのだろう。
かつて西川如見は、将軍を天皇の「名代」(『町人襄』)と見立てたが、白石や徂徠・春台などは、徳川の支配を実質的な新しい王朝の成立と見ていた。闇斎は、地上世界を平定した「金気武徳の神」(スサノオ)の功業に擬えて徳川体制を称えたが、その門人の佐藤直方(一六五〇〔慶安三〕年〜一七一九〔享保四〕年)は、白石や徂徠と同じように、そこに儒教の教える易姓革命(天の意志として、残忍不徳の王朝を有徳の王者が打倒して新王朝を開くこと)に通じるものを認め、同門の浅見絅斎(一六五二〔承応元〕年〜一七一一〔正徳元〕年)は、京都の朝廷が日本史を貫く唯一の主上だと捉えていた。
こうした中、宣長ははっきりと、徳川将軍の権力がアマテラスの計らいとして、朝廷から委任されたことで成り立っていると説いた。
(引用終了)
<同書 133−148ページ(フリガナ省略)>
<宗教・思想基本比較表>に沿って国学の「至高」を朝廷=天皇と置くと、<徳川朱子学>の「至高」と同じになる。この共通性が、幕末において尊王倒幕思想を生み出してゆくことになる。何故かというと、国学の出来によって、「至高」としての天皇から委任を受けた徳川幕府が処々の理由によりその任を果たせなくなった場合、政治は一旦天皇に返還されるべきという言い分が説得力を持つようになるからだ。徳川朱子学を支えた山崎闇斎の崎門学と、国学とが、「至高」=天皇の一点において同期(シンクロ)し始める。徳川朱子学が本場の朱子学のように「至高」を(天皇でなく)天命に置いておけば(白石や徂徠が幕府権力の正当性をはっきりさせておけば)、このようなことはなかった筈なのだが。『夜間飛行』「
経営の落とし穴」ではこのことを「徳川朱子学の逆噴射」と表現した。『江戸の思想史』からさらに引用しよう。
(引用開始)
将軍も大名も、朝廷からの委任によって領土領民を支配しているのだが、その朝廷(天皇家)もまたアマテラスからの「事よさし」(委任)によって朝廷たり得ていると宣長は捉えている。(中略)こうして生まれた「委任」論が、おそらく宣長の想像もしなかった役割を、十九世紀の政治史・思想史の中で発揮することになる(権力を「委任」されたという前提がなければ、大政の「奉還」の版籍の「奉還」のあり得ない)。
(引用終了)
<同書 148−149ページ(フリガナ省略)>
神道と国学の近しさとその先に出来する尊王倒幕思想。神道について<宗教・思想基本比較表>から再掲すると、
<神道>
「対象」:日本国
「至高」:八百万の神々
「教義」:なし
「信仰」:至高を信ずる
「特徴」:集団救済(ただし現状維持程度)。予定説。
となる。以前『夜間飛行』「
神道について」の項で、“神道の「教義」の部分を何とか自前の思想でつくろうということで「国学」が生まれた”と書いたことがあるが、ここで国学を表にすると、
<国学>
「対象」:日本国
「至高」:天皇
「教義」:古事記伝など
「信仰」:至高を信ずる
「特徴」:集団救済(ただし現状維持程度)。予定説。「至高」としての天皇から委任を受けた徳川幕府が処々の理由によりその任を果たせなくなった場合、政治は一旦天皇に返還されるべきとする尊王倒幕思想を生む。
と記すことができるだろう。