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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <預治思想について>

 以前<信長における父性>の項で、織田信長は、朱子学に淵源をもつ「預治思想」に基づいた国づくりを行おうとした、という説を紹介した。『信長革命』藤田達生著(角川選書)に拠ったものだが、今回はその預治思想について、前回<天道思想について>の項でみた「天道思想」と比較しながら考えてみたい。まず、預治思想について『信長革命』から引用しよう。

(引用開始)

 信長は、鉄砲をはじめとする数々の火器の普及による軍事革命の進行、中国における一条鞭法の導入による銭から銀への基軸通貨の移行に伴う日本国内の通貨体制の混乱、キリスト教の浸透に伴い想定される大名・領主による土地寄進、すなわち植民地化といった未曽有の事態を憂慮した。(中略)
 信長は、戦国大名たちの領土をめぐる戦争の最大の理由を、「一所懸命」的な価値観に求めた。つまり本領の侵害という認識が、戦争を泥沼化させた要因とみたのである。大名同士の長期戦は、領国を疲弊させるばかりか、山城国一揆や播磨国一揆のような大規模一揆を勃発させ、武士団が追い出される可能性すらあった。(中略)
 内外の危機によって武士階級の共倒れを回避すべく、沈思黙考の末に彼が到達したのが、預治思想であった。これに関して信長は、天正八年八月十二日付で指令を出した九州停戦令(後述)において、島津氏に対して来年には毛利氏を攻撃するので大友氏との戦闘を停止し双方が和睦するように命じ、毛利氏攻撃に積極的に協力することが、信長に対してではなく「天下に対する大忠」であると表明したことが重要である。
 従来、戦国大名間の紛争を停止させ、その軍勢を動員する権限は、将軍大権に属した。信長は、依然として義昭を支える島津氏に対して、将軍権力を超越した「天下」への服従を求めたのである。
 先述したように天正九年になると、信長は自らを「国王であり内裏である」とさえ述べている。将軍と天皇の権限を統合した存在であり、天から支配権を付託された絶対者として自己を位置付けたのであり、これこそが天下人なのであった。
 天が徳のある者に命を下して天下を統治させ、もし悪行を行えば命を革めて他の者に命を下すという「革命」の考え方は、中国皇帝権力の中核的要素となり(岸本、二〇〇二)、日本には朱子学を通して伝播した。将軍義昭を「放伐」し、自らの権力を高めてゆこうとした信長の思想は、まさにその影響を受けている。

(引用終了)

<同書 167−170ページ(フリガナ省略)>

前回見た天道思想が、「天」のpositioningを「天体運行・四季循環・災害といった具体的な自然現象」に見ていたのに対し、信長の預治思想はそれを中国由来の「天命」に置き換えたわけだ。場所性を超越した考え方という意味で、非日本的なスケール感を持つ。そこへ至るにはやはり西洋との出会いが大きかったと思う。

 日本の父性(国家統治能力)の源泉、

(1) 騎馬文化=中世武士思想の源泉
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
(4) 西洋文化=キリスト教と合理主義

でいえば、信長は(1)と(2)を自家薬籠中の物とし、思考ツールとして漢字・漢文を用いていたから(3)にも感化されていた。戦国時代までの(3)は神仏習合的世界観の下にあったが、(4)と出会ったことで信長は、(3)を当時の東アジア的スタンダードにまで高めようとしたといえるかもしれない。

 <信長における父性>の項では、「信長は西洋語的発想に共鳴しつつも、根っこのところでは(3)から離れられなかった。天皇と足利将軍、神道までは相対化したが、漢文的発想そのものまでは相対化できなかった」と書き、続く<信長の舞>の項で、「もし信長が通訳なしで中国語やポルトガル語を話せるようになっていたら、歴史は違った展開を見せたに違いない」と(4)への接近可能性を示唆したが、もし彼にもっと時間があったならば、(3)、(4)ばかりではなく、(1)と(2)をも含めたさらに「新しい思想」を考え出したかもしれない。

 『信長革命』によれば、信長の預治思想はその後豊臣秀吉に引き継がれ、徳川家康にも影響を与えたという。先日『夜間飛行』「教義と信仰」の項で、「徳川幕府が導入した朱子学も(中略)天道思想の延長のようだが、天道思想がその原点(天)を天体運行・四季循環・災害といった具体的な自然現象に置いたのに対し、幕府は(下克上を抑える目的で)それを天皇に置き、徳川幕府は天皇から統治委任を受けたという形を取った」と書いたが、徳川幕府における預治思想は、天を信長の大陸的な「天命」から、列島内の「天皇」へと縮小したことになる。東アジア的スタンダード導入から鎖国政策への転換。その背景にはスペイン・ポルトガルからの(4)による脅威などがあったわけだが、そのことで、列島の(3)は再び神仏習合的世界観の下へ回帰したようだ。天道思想から辿れば、戦国時代→織豊時代→徳川時代において、列島の「天」は「自然現象」→「天命」→「天皇」と変遷していったことになる。
「百花深処」 <預治思想について>(2018年01月11日公開) |目次コメント(0)

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