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古代民族文化 III>において、日本の父性(国家統治能力)の源泉、
(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
に関し、鎌倉・室町時代は、(1)が主導的に国を治め、(3)がそれを官僚として補佐、(2)は外交や交易の場で力を発揮する、といった「トロイカ体制」で運営されたと考えられると書いた。また、(1)と(2)は思考ツールとして漢字・漢文を用いるので、どちらも(3)の影響下から離れられなかったと書き、<
古代の民族文化 IV>の項で、「神道」をその例として挙げた。
鎌倉・室町の後は戦国時代である。この時代、列島の父性の系譜を考える上で最も重要なのは、西洋との出会いであろう。ポルトガル船による種子島への鉄砲・火薬伝来が1543年、キリスト教(イエズス会)宣教師ザビエルの鹿児島における天主教伝道が1549年。複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
における、A側の英語(西洋語)的発想がついに列島に齎されたのである。それまでのA側は漢文的発想が担っていた。
といっても人々の発想が一朝一夕に変わるわけではない。漢文的発想はその後も大半の日本人のA側の思考に用いられた。<
中世武士の思想>で述べたように、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。
戦国時代、いち早く西洋語的発想に鋭く反応したのは、キリシタン大名および、天下統一を果たす織田信長であった。『信長革命』藤田達生著(角川選書)という本には、信長と会ったイエズス会宣教師フロイスが、その著書『日本史』で信長の性質について述べた部分の引用がある。
(引用開始)
彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかのことでは人間味と自愛を示した。(中略)酒を飲まず、食を節し、(人の)取扱いにはきわめて率直で、自らの意見に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らの話をした。そして人々は彼に絶対君主(に対するように)服従した。(中略)神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占朴や迷信的習慣の軽蔑者であった。(中略)彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りなどであり、目前で(身分の)高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ(日本史)。
(引用終了)
<同書73ページ(フリガナ省略)>
卓越した武将としての彼は、日本の父性(国家統治能力)の源泉、
(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
のうち(1)と(2)について自家薬籠中の物としていただろう。また思考ツールとして漢字・漢文を用いていたから(3)にも感化されていたに違いない。しかし信長は、天皇や足利将軍に服従することなく、神道に対しても客観的な見方が出来ていたとある。それは彼が出会った西洋語的発想から得たものだったと思う。
『信長革命』のカバー裏表紙紹介文を引用しよう。
(引用開始)
若き日の織田信長は伝統的な室町幕府体制に理解を示していた。その彼がなぜ天下人をめざしたのか。大量殺戮兵器を可能とした火縄銃・大砲による軍事革命、キリスト教の浸透、基軸通貨だった中国銭の信用不安。戦国時代末期の島国日本を襲った未曾有の危機に、信長は卓越した合理思想・実力主義で改革を断行していく――。日本史上類を見ない大変革を図った「安土幕府」の実態に、良質な史料と最新の発掘成果から徹底的に迫る!
(引用終了)
『信長と十字架』(集英社新書)の著者立花京子氏は、さらに進んで信長はイエズス会に使われていたと書く。カバー表紙裏の紹介文を引用する。
(引用開始)
「天下布武」の理念を掲げて、ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力のために立ちあがった信長は、彼らによって抹殺された――。信長研究に新風を吹きこんできた注目の研究者が、この驚愕の結論を本書で導き出した。
信長が使用した印章「天下布武」と「スカラベ」型の古代エジプトの印章の類似性、覇業をささえた「天下布武」という言葉の意味、信長上洛に暗躍した要人たちの人脈研究、当時の数多くの日記の分析等から、従来の研究では考慮されることがなかった信長の全国制覇と南欧グローバリゼーションの密接な関係を浮き彫りにする画期的論考!
(引用終了)
イエズス会に使われていたかどうかはさて置き、信長が新来の西洋語的発想に鋭く反応したことは確かであろう。
しかし、彼は漢文的発想から離れられなかった。藤田氏は『信長革命』の「むすび」で次のように書く。
(引用開始)
小著のテーマを「信長革命」としたのは、決して奇をてらってのものではない。四百年もの前の島国日本に、突如として「革命」の火の手が上がったことに着目したからである。「大航海時代」というグローバル化のなかで、それは日本の伝統と権威を否定し、東アジア的スタンダードを強制導入させるものであった。
(引用終了)
<同書 271ページ>
信長の思想の基本は伝統的な中国志向であり、(朱子学に淵源をもつ)預治思想にもとづいた国づくりを行おうとしたという。
信長は西洋語的発想に共鳴しつつも、根っこのところでは(3)から離れられなかった。天皇と足利将軍、神道までは相対化したが、漢文的発想そのものまでは相対化できなかった。彼は本能寺で殺される。もしイエズス会が主犯もしくは殺害の背後にあったとするならば、彼は「大航海時代」を出現させた西洋語的発想の力、キリスト教の力に油断したのである。同説については『闇に葬られた歴史』副島隆彦著(PHP研究所)にさらに詳しい。