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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <古代の民族文化>

 前回<武士のルーツ>で触れたブログ『夜間飛行』「古代史の表と裏」の項で、古代の民族文化について、

(引用開始)

 この遊牧、農耕、海洋といった民族概念が重要だ。民族によってその文化や言語、宗教や歴史、さらにはその居場所と統治機構の在り方が違う。当初日本列島には、海岸地域に暮らす海洋民族(おそらく朝鮮半島のそれと同類)、内陸に暮らす狩猟民族がいただろう。それが半島と交易するなかで、農耕民族、遊牧民族が移入し、彼らの文化、居場所が形成される。その後、各民族が棲み分け、共生、あるいは戦いながら各々の文化を熟成、列島で鉄がつくられ始める紀元七世紀ごろより、日本は半島・大陸から離れて独自の民族的発展を遂げてゆく。各民族文化のブレンド具合が今に繋がってくるわけだ。

(引用終了)

と書いた。おおざっぱに括れば、

@ 海洋民族としての倭人
A 狩猟民族としての縄文人
B 農耕民族としての弥生人
C 北方アジア由来の遊牧民族

の配合といえる。<武士のルーツ>で述べたように、中世武士思想のルーツが坂東や東北・北陸の騎馬文化だとすると、それは民族的にいえば主にAとCのブレンドということになる。

 『カラー版 東京の森を歩く』福嶋司著(講談社現代新書)に、八世紀ごろ武蔵国(の高麗郡や新羅郡)に入植した渡来人たちの話が出てくる。

(引用開始)

 彼らは湧水池付近に住み、水に乏しい武蔵野台地で焼き畑農業をおこなった。それは「火田(かでん)」とも呼ばれ、樹木を伐採して枯らし、それに火をつけて燃やす。その後に残った灰の肥料分を使ってマメやソバなどを栽培し、肥料分がなくなるとそこを放棄して別の場所に移った。武蔵野台地では長い期間にわたり、この耕作方がつづけられたと思われる。各地でおこなわれた焼き畑の跡地の一部は「牧」として利用されたが、その多くは低木やススキのめだつ「藪」となったまま放置された。そのため、長いあいだにわたって武蔵野には草原や藪がひろがることになった。

(引用終了)
<同書 59ページ>

「牧」は騎馬文化、「焼き畑」は遊牧民的な耕作方だ。縄文人は昔から木の実や草の新芽などを食していた。AとCブレンドの一つの形だと思う。

 去年9月、『騎馬文化と古代のイノベーション』古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」編集委員会編(KADOKAWA)という本が出版された。本帯の紹介文には次のようにある。

(引用開始)

生き残りをかけた決断だった!
緊迫した東アジア情勢が騎馬文化を日本列島にもたらし、イノベーションとグローバリゼーションが始まった。
最前線の歴史学者・考古学者が結集し、古代史の謎に挑戦した記念碑的シンポジウムの画期的な成果を完全収録。図版・脚注・資料を多数収録。

(引用終了)

今年の5月、『越境の古代史』田中史生著(角川ソフィア文庫)も出た。『古代史謎解き紀行V関東・東京編』関裕二著(ポプラ社)、『日本史への挑戦』森浩一・網野善彦共著(ちくま学芸文庫)もある。これら関連本を読んでさらに研究したい。
「百花深処」 <古代の民族文化>(2017年07月03日公開) |目次コメント(0)

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