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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <中世武士の思想>

 『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)という本を読んでいる。

(引用開始)

<徳川の平和>が育んだ刺激的な思考を辿る

荻生徂徠、安藤昌益、本居宣長、平田篤胤、吉田松陰――江戸時代は多くの著名な思想家を生み出した。だが、彼らの思想の中身を問われて答えられる人は多くないだろう。それでも、難解な用語の壁を越え、江戸の時代背景をつかめば、思想家たちが何と格闘したのかが見えてくる。それは、<人と人の繋がり>という、現代の私たちにも通じる問題意識である。一三のテーマを通じて、刺激に満ちた江戸思想を案内する。

(引用終了)
<本帯裏表紙より>

 以前<日本の戦後の父性不在>の項で、日本の戦後の父性不在(国家統治能力の不在)は、日本国の権力者が米軍に従属する道を選んだからだと書き、国民がそれを諾々と受け入れているのは、「国家理念不在」が理由の一つであると論じた。日本をどういう国にしたいのかという国家理念案にまともなものがないから、国民は、米軍に従属する権力者(greedに犯された一部の富裕層と中央官僚)に誘導されながら、統治能力のない政府(国会議員)を選び続ける。

 「国家理念不在」はまた、ブログ『夜間飛行』で追いかけてきた「街づくり」の諸課題に対しても、ボディ・ブロウのように効いている。国家理念が不在だから都市の理念も形成しづらく、都市理念が形成しにくく不在だから、都市計画の方針も定められないという悪循環。

 これでは困るということで、先日『夜間飛行』「国家の理念(Mission)」の項で、国家理念私案の突端を描き、「詳細についてこれからも研究を重ねたい」と書いた。その研究の一環として、日本の父性を歴史的に遡ろうと、『江戸の思想史』を読み始めた次第。

 父性は、ブログやこの連載評論で提唱している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるA側の力である。以前<複眼主義による思考と美意識の分析>の項で、日本人のA側について、

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日本古来の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動でありながら、自然を友とすることで、高みに飛翔し続ける抽象的思考よりも、場所性を帯び、外来思想の習合に力を発揮する。例としては修験道など。その美意識は反骨的であり、落着いた副交感神経優位の郷愁的美学(寂び)を主とする。交感神経優位の言動は、概ね野卑なものとして退けられる。
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と整理したが、16世紀に西洋と出会う前の日本では、A側は主に漢文的発想によって担われてきた。修験道は、仏教や陰陽道によって修験(山岳修行をする行者が己の験を高める努力)を宗教化したもの。西洋との出会い以降、漢文的発想と西洋語的発想とが共存、やがてA側は(徐々に)西洋語的発想に置き換わってゆく。江戸時代はその共存の真っただ中であり、なかなか興味深い。

 本書序章「江戸思想の底流」6ページに次のような指摘がある。

(引用開始)

 南北朝から応仁の乱にかけて、日本社会はかつて経験したことのない質的な転換を遂げたのであろう。そして私の考えるところ、応仁の乱から引き続いた戦国内乱の時代は、この巨大な転換を完結させるための、日本史上かつてない甚大な犠牲をともなった長い過渡期であった。近世の起点をどこに置くのか、いわゆる織豊政権からか、秀吉の時代か、それとも江戸幕府が開かれてからなのかという議論はさておき、近世という時代の幕開きは、この転換が最終的に完了したことを意味している。江戸の思想史を考えるということは、この転換の意味を、転換の<こちら側>から考えることでもある。

(引用終了)
<同書6ページ(フリガナ省略)>

応仁の乱は15世紀(1467-1477年)だから西洋との出会いはまだ先、戦国の内乱と西洋との出会いは同じ16世紀である。日本近世の始まりは、社会の質的転換と、西洋との出会いとの両方によって齎されたといえるだろう。

 日本社会が質的転換を遂げた要因は、律令体制の弱体化と武士の台頭であるというのが一般的な見方だろう。この本の第2章「泰平の世の武士」42ページに、中世武士の思想について書いた部分がある。

(引用開始)

 武士は、戦闘を職能とする武装自弁の集団として登場した。「兵」は武具を与えられ、コマとして動かされる者であるから、両者は同じではない。中世の武士たちは、「弓矢取る道」「武者の習」などと呼ばれる独特な規範をもつようになっていた。「名」を重んじて「恥」を恐れ、軍功を競い、同輩に後れをとることを嫌う。それは「武辺の意地」を立てる、「おのれの一分」を立てるというような剛直な精神でもあって、その社会的な基盤は、在地に根付いて館を構え所領を支配し、一族郎党を抱えて武士団を作っていることにあった。所領の支配については独立して不可侵であり、誰の干渉をも許さない独立性を誇った。
 このような武士によって政治が運営される中から、法体系は「道理」に基づくべきものであり、政治家は公平・無私であれというような思想が生まれてきた。(中略)超越者への畏怖、物事への洞察、武士としての強み、周囲への配慮、人間的な魅力……これらを兼ね合わせるのが、あるべき武士の棟梁なのである。
「文」や「徳」に依拠する東アジアの正統的な価値観からすれば、戦闘者の世界から独自の思想が生み出されてくるなど、およそ考えられない。しかし日本では違っていた。武士はいつまでも単なる戦闘者ではなく、為政者でもあったからである。

(引用終了)
<同書42−43ページ(フリガナ省略)>

ということで、中世武士たちは漢文的発想を用いながらも、東アジアの正統的な価値観とは一味違った父性の在り方を示していたようだ。

 以前<雨過天青>の項で、ドナルド・キーン氏の『足利義政』を参照しながら、“室町時代、特に東山文化の頃、いまの日本人の生活スタイルの基盤ができたとキーン氏は指摘する。わび・さびといった美意識から、花道・茶道・能楽・連歌といった芸能、書院造りや日本庭園、味噌、醤油、豆腐といった和食に至るまで、その基礎ができたのは室町時代に遡るという”と書いたけれど、それには中世武士たちの存在が大いに影響したと思われる。

 中世武士の思想の独自性は何によって齎されたのであろうか。台頭した武士たちの歴史的背景についてさらに探ってみたい。
「百花深処」 <中世武士の思想>(2017年05月01日公開) |目次コメント(0)

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