前回<
根村才一の憂鬱 II>で引用した『丸谷才一』(「文藝」別冊・河出書房新社)に、「モダニズム的な戦後派」という根村才一(ペンネーム丸谷才一)に関する興味深い文章がある。書いたのは文芸評論家田中和生氏。
(引用開始)
実際、世代としては一九四〇年代末に次々登場した第二次戦後派の安部公房や三島由紀夫、井上光晴といった書き手に近いにもかかわらず、一九六〇年に刊行した長編『エホバの顔を避けて』で比較的遅い出発をした丸谷才一は、戦後派とは見なされていない。また、少し上の世代を含む「第三の新人」とも下の世代を含む「内向の世代」とも作品の傾向が違い、おない年の辻邦生らと一緒に江藤淳から一九七四年に「フォニイ」と呼ばれた以外は、だから文学史的な位置づけが曖昧である。だとすればその位置づけは、同時代人であった三島由紀夫を横にならべることで、かなりはっきりと見えてくるはずである。
(引用終了)
<同書 12ページ>
江藤淳が根村のことを「フォニイ」(にせもの)と呼んだのは1974年のことである。根村が長編小説『たった一人の反乱』を書いた頃のことだ。江藤はなぜ根村のことをそう呼んだのか。
田中氏は、根村を「二十世紀ふうの文学」が書ける「優れた批評家」だったと評価したあと、根村は戦後を描くに当り、戦前の日本における戦争から敗戦へと至る流れに結びつかない要素(江戸情緒を色濃く残す花柳界における色恋的美意識)だけを戦後日本に甦らせ、平和憲法に支えられた戦後民主主義にリアリティを与えようとしたという。
(引用開始)
だから丸谷才一の作品では戦後日本における平和な市民生活にはリアリティがあるが、その生活を脅かす戦争や国家を批判する言葉にはリアリティがない。なぜならば三島由紀夫の作品が証明するように、日本文学の伝統に結びついて存在したはずの戦争や国家がリアリティをもった戦前の日本が、そこではなかったことにされているからである。江藤淳が「フォニイ」と呼んだのは、おそらくその部分を指している。
(引用終了)
<同書 22ページ>
田中氏は、平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)を「十九世紀ふうの国民文学」(リアリズムとナショナリズムが結びついた文学)を出ていない「屈折した戦後派」と呼ぶ。単純な戦後派が、戦前の日本をすべて否定して戦後日本をすべて肯定しようとするのに対して、『鏡子の家』の失敗のあとの平岡は、伝統によって戦前の日本に存在した秩序や道徳にリアリティをあたえ、結果として戦後日本における美意識の欠如を批判しようとしたとする。
『夜間飛行』「
足に靴を合わせる」の項で論じたように、戦前までの日本では、「公」=父性は、「個人」ではなく「家」によって担われていた。それを新憲法が壊して「個人」に置き換えたわけだが、そう簡単に社会は変らない。平岡も根村も、父性の存在を探るなかで、「家」の問題にぶつかったに違いない。しかし戦後日本で「平岡家」や「根村家」をレゾンデトール(存在価値)とするわけにはいかない。ではなにをもって「公」=父性とするか。
平岡は、明治政府がつくった抽象的な「国家神道」を「家」の代わりに選び、それを強引に戦後社会に当て嵌めようとした。いわゆる『憂国』『英霊の謦』などの天皇制肯定路線である。
根村は、「個人」による父性が戦後社会に徐々にできあがる方に賭けた。しかし、<
根村才一の憂鬱>でみたように、それは幻想でしかなかった。
結果として、平岡は時代錯誤(アナクロニズム)、根村はにせもの(フォニイ)と呼ばれることとなった。<
日本の戦後の父性不在>に対して、どちらも「帯に短し、襷に長し」の答えしか提出できなかったわけだ。田中氏は、この二人の考え方を併せることによって、戦後日本を的確に描かくことができるのではないかという。
(引用開始)
しかしその両方(戦前と戦後)のリアリティをもつ作品など、三島由紀夫の『鏡子の家』とおなじくひとりの作者の力量を超えたものだろう。あるいは「優れた批評家」丸谷才一の視線をもつ「屈折した戦後派」三島由紀夫こそ、日本語による「二十世紀ふうの世界文学」を書くことのできる「完璧な戦後派」だったかもしれない、とわたしは夢想する。
(引用終了)
<同書 22ページ(括弧内引用者註)>
平岡と根村が補完的だというのが面白い。確かに、戦前の「恋闕の情」から「花柳界の色恋」、「家父長制」から「白樺派」、「特攻隊員」から「兵役忌避者」までを自家薬籠中の物にして、「個人」が確立されない戦後日本を舞台にそれらの要素を展開すれば、優れた戦後文学が生まれただろう。そうだとすると、二一世紀の新しい日本文学は、仮想されたその作品の先に存在するのかもしれない。