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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <根村才一の憂鬱>

 根村才一(ペンネーム丸谷才一)について書きたいと思う。<平岡公威の冒険 14>で、彼の平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の文章に対する批判を引用したが、そもそもこの二人、同年(1925年)生まれである。平岡が1月、根村が8月、約半年の隔たりしかない。平岡の生誕地は東京四谷、根村のそれは山形鶴岡。

 文壇で活躍したのは、平岡が戦後すぐ1949年(昭和24年、『仮面の告白』出版)から1970年(昭和45年)まで。根村は1968年(昭和43年、『年の残り』芥川賞受賞)から2012年(平成24年)まで。2年間のオーバーラップはあるけれどほとんど重なっていない。年齢的には、平岡が24歳から45歳まで、根村は43歳から87歳まで。二人とも今(2016年)生きていたら91歳だ。

 根村才一についてはこれまで、

『夜間飛行』「社交のための言葉
『夜間飛行』「レトリックについて
『夜間飛行』「レトリックについて II
『夜間飛行』「近代西欧語のすすめ
『夜間飛行』「虚の透明性とモダニズム文学」 
『夜間飛行』「書評文化

の項などでその作品を論じてきた。また、国語学者大野晋との対談『日本語で一番大事なもの』丸谷才一・大野晋共著(中公文庫)を参考にしながら、

『夜間飛行』「助詞の研究
『夜間飛行』「助詞の研究 II
『夜間飛行』「助詞の研究 III
『夜間飛行』「助詞の研究 IV
『夜間飛行』「助詞の研究 V

の各項を、同じく大野晋との対談『光る源氏の物語(上)(下)』丸谷才一・大野晋共著(中公文庫)を参照しながら、

『百花深処』<宇治十帖
『百花深処』<六条院の庭
『百花深処』<華やかなもの II
『百花深処』<完成された美意識

の各項を書いてきた。私が関心をもつ作家の一人である。

 『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正編(集英社新書)収録の「官能的なものへの寛容な知識人」という鹿島茂氏の寄稿文に、ちょっと気になる文章があった。そこから論を始めよう。先ずその部分を引用する。

(引用開始)

 丸谷さんが『輝く日の宮』を出された後、「次の作品はどういうものになるんですか」とお尋ねしたら、「いや今度は、警察に捕まるかもわからないようなものを書く」とおっしゃっていました。それが『持ち重りする薔薇の花』なんですけど、結局、丸谷さんは、最後になって官能的なものを書くのを止めた、あるいは書いたけれども削ったらしいんです。丸谷さんが警察に捕まるとおっしゃるぐらいなんだから、それはもう技巧の極致を尽くして書いてくれるだろうと大いに期待したのですが、残念ながらそれは表には出ませんでした。
 僕が丸谷さんに最後にお会いしたのは二〇一二(平成二四)年の五月五日だったと思います。入院されていた病院に訪ねていきました、そのとき丸谷さんは、大変お元気で、病室で小説を書いておられました。その小説の書き出しも読ませていただいたのですが、それも結局発表されませんでした。
 それは、折口信夫を主人公にした小説です。丸谷さんは折口信夫をとても評価されていました。折口信夫という人こそ、官能的なものを最後の砦として認識して、しかも戦争中にもそのことを、さまざまな楯を張りめぐらしながらですが、軍部の弾圧にもめげずに主張した人と評価しておられたからだと思います。おそらく丸谷さんは折口信夫を自分と重ねあわせていらっしゃったのではないかと思います。

(引用終了)
<同書 146−147ページ(フリガナ省略)>

 最後の長編小説『持ち重りする薔薇の花』の構想が途中で変更された件、なぜ官能的なものを入れなかったのだろう。出来た文章が気に入らなかったのだろうか。構成上のバランスだろうか。根村は2011年に文化勲章を受章するが、そのために書くのを止めたのだろうか。周囲(編集者など)にいわれて止めたのか。折口信夫を主人公にした小説の件、これは(未完としても)その後発表されていない。遺言には(発表についての指示が)なかったのか。それとも原稿そのものが作者によって破棄されたのか。最近『丸谷才一を読む』湯川豊著(朝日新聞出版)が出たがこれらの点についてはなにも触れていない。謎の残る晩年だ。

 論を進めよう。根村は2011年文化勲章を受章した時の新聞インタビューのなかで、日本の現状を問われ、

(引用開始)

 「戦前戦中に比べれば、現代は基本的人権と言論の自由が確立され、圧倒的に恵まれている。この条件をどれだけ生かしているのか、前から非常に疑わしいと思っていた。今の日本は(原発事故も含め)何を言っても大丈夫なのに今年、ああいう事故が起きてしまった。疑わしさがいよいよはっきりしました。ああいう事故が生じるような国をつくってしまったのは問題だと思う」。

(引用終了)
<東京新聞 10/25/2011>

と社会を断罪している。言論の自由は「公」に属するmatterだが、日本では「公」が機能していないではないかという指適である。

 平岡公威は、<平岡公威の冒険 5>で書いたように、晩年、戦後の日本社会を「偽善」として断罪した。しかし、根村才一は平岡と異なり、戦後の日本を、「成熟」した近代社会として肯定してきた。もちろん日本社会のあり方への提言は多々あったが、それは前向きなもので、平岡のように自分の身体をぶつけて死んでしまうような対象とは考えていなかった筈だ。たとえば、『恋と女の日本文学』(講談社文庫)収録の「恋と日本文学と本居宣長」の中で、西洋の恋愛小説には「公」と「私」の両方があった、と指適した上で、

(引用開始)

 その点、近代日本文学はさうはゆかなかつた。社会が未成熟で、人間のなかに公と私の双方があるのではなかつたから。私があるだけたつたから。さう言い切つていいと思ふ。それなのに敢へて社会を描かうと努力すると、明治の政治小説や昭和のプロレタリア文学のやうな強引なことになつて、破綻するわけである。かうして、公と私、社会と恋を二つながらとらへることは、日本文学の宿題になつてゐるのですが、戦後、とりわけ高度成長以降はかなり様子が違つて来た。社会が成熟し、人間の内部に公と私との両方があると言つてもいい状況に近づいた。つまり恋と日本文学との関係は新しい時代にはいりさうになつた。あるいは、その新しい時代にすでにはいつてゐるのかもしれないけれど。

(引用終了)
<同書 97−98ページ>

と書いている。高度成長以降日本社会は成熟し、人間内部に「公」と「私」両方あるといえるようになってきたと述べているわけだ。書かれたのは1995年のことである。

 つまり、1995年段階での日本社会の「公」と「私」に関する肯定的態度が、2011年、死の前年になって、「公」の部分の自由度が「前から非常に疑わしいと思っていた。疑わしさがいよいよはっきりしました」と変ってきた。なぜ最晩年に至り、平岡と同じように戦後社会を断罪するようになったのだろうか。 

 根村の最晩年のエッセイ集に『無地のネクタイ』(岩波書店)がある。出版は2013年2月。根村の(心不全による)死は前年の10月だから、死から4ヵ月後のことである。このエッセイ集、それ以前の彼の洒脱なエッセイとは異なり、日本社会に対する辛辣な批判がそのままストレートに表出されている。街の景観の劣悪なるを憂い(「六本木ヒルズでの感想」)、平成という年号を呪い(「表記論」)、放送関係者の自己批評不足を論じ(「テレビ批評の必要性」)、千代田区の地震対策を批判し(「そのときは皇居を開放せよ」)。脱原発へ舵を切るべきだと主張する(「ジャーナリストとしての伊東光晴」)といった内容で、一読、すこし面喰うほど社会への「義憤」が強く感じられる。解説者の池澤夏樹氏は(根村のエッセイの多くが文藝春秋社から出ているのに対してこれが岩波書店からだから)「それぞれの社風に合わせて書き分けたのだ」というけれど、私はそれだけではないように思う。

 以前<日本の戦後の父性不在>のなかで、なぜ戦後、日本国民が国の米軍従属路線を諾々と受入れてきたのかについての理由を、

(1)環境中心の考え方
(2)優秀な人材は経済復興に
(3)認知の歪み
(4)ヤンキー化
(5)老人の隠居
(6)国家理念不在

の六つに纏め、

(引用開始)

高度成長期のあと社会の成熟が齎される筈だった頃、(2)の人々が国家統治能力不在に対して何もして来なかったことが残念だ。長く続いた高度成長に目が眩んだのだろうか。

(引用終了)

と書いたことがある。

 根村才一は、43歳で作家として認められる前まで、國學院大學の助教授として働いていた(退職したのは40歳の時)。大学助教授職は社会づくりの要員だから、根村は戦後20年間、上でいう(2)の一員だったといえるだろう。念のために(2)の説明文を再掲しておこう。

(2) 優秀な人材は経済復興に

環境中心ではなく主格中心に考えることの出来る日本人もいるけれど、戦後、彼らの多くは国家統治よりも産業復興に向かった。高度成長期以降、それらの人々が国家統治能力を発揮する方向へ向かえばよかったが、裕福になったことも手伝ってそうはならなかった。

 根村が「恋と日本文学と本居宣長」を書いて戦後の日本を「成熟」した近代社会として肯定したのは、まさに高度成長期以降の1995年である。<平岡公威の冒険 5>の項で参照した、矢部宏治氏の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)に次ぐ二冊目の本、『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』矢部宏治著(集英社インターナショナル)を最近読んだが、戦後、日本がサンフランシスコ条約によって表面上独立を回復するまでの間に、米軍が(朝鮮戦争を奇貨として)いかに日本政府をその直接支配下に置くための法的体系を巧妙に作り上げてきたかがよく分かる。憲法の上位に日米地位協定が存在する以上、戦後日本社会の「公」の部分は今も米軍のコントロール下にある。基本的人権も言論の自由も本物ではない。このことに目を瞑った(或はこのことを知らずにいる)論説は無効である。

 根村は、やはり長く続いた高度成長に目が眩んでいたのではなかったか。文壇と仲良くして講演会などで全国をまわりながら美味しいものを食べる。『食通知ったかぶり』(中公文庫)単行本1975年(昭和50年)出版。仲間と酒を飲む。『文学ときどき酒』(中公文庫)1985年単行本出版。歌仙を巻きながら飲む。『歌仙の愉しみ』(岩波新書)2008年出版。無数の洒脱なエッセイを書く。『腹を抱へる』『膝を打つ』(共に文集文庫)などなど。すべて大家の芸の内。悪いわけではないが、少し楽観的過ぎる。

 それが2011年の3.11前後、根村の目に国民の欺瞞がだんだんと明白になってきた。原発事故とのその後の政府の対応は、「公」を自らの手の内に持たない植民地国家の無責任さを万人の眼に晒した。しかし大家と成りおおせた自分(文化勲章をもらう身分の自分)は、平岡のように何もかも捨てるわけにはいかない。健康状態は悪く、あまり時間は残されていない。寿命はもってあと一、二年だろう。そのことが<根村才一の憂鬱>として、一方で新聞やエッセイでの社会断罪発言になり、一方で(鹿島氏が指摘したような)創作世界での微妙な狂いになってしまったのではないだろうか。

 前記『無地のネクタイ』「表記論」で平成という元号について、根村は「…これが実際の発音はヘイセイではなくヘエセエで、エ列音が四つも藝もなく並んで滑稽だし、明るく開かない音で陰にこもるし、それにヘといふのはあのガスのへとか、ヘコヘコとか、ヘコムとか、ヘタクソとか、ヘナチヨコとか、ヘベレケとか、ヘボとか、ヘラヘラとか、マイナス方向を指示する言葉が多くて連想がよろしくない…」とnegativeな言葉を列挙する。それはかつて平岡が、これからの日本について『蘭陵王』(新潮社)で「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と列挙した修辞(レトリック)と呼応するように思う。二人の同年作家によって列叙法(accumulatio)で描かれた列島の惨めな姿。あとに続く我々は、ここから出発するほかない。

 以上、勿論あくまでも仮説だが、鹿島氏の文章を読み、『無地のネクタイ』を読み、新聞のインタビューをみた率直な感想として、根村才一が、最後まで余裕派の態度で人生を全うしたとは思えないのでこれを書いた。
「百花深処」 <根村才一の憂鬱>(2016年07月17日公開) |目次コメント(0)

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