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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <平岡公威の冒険 14>

 平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の文体について書いてみたい。以前ブログ『夜間飛行』「長野から銀座へ」の項で、平岡の文章は「擬人の比喩」が多いと指適したことがある。

 擬人の比喩とは、「容器の比喩」と対峙する論理形式で、[主体−対象−動作]という形式、容器の比喩は[空間や容器の内と外、上と下]といった論理形式である。たとえば、「怒りが私を突き動かした」といえば擬人の比喩、「彼は思慮深い上に親切だった」といえば容器の比喩を使ったことになる。丸山健二の次のような文章、

(引用開始)

 夏の到来を告げる雷雨がまるで告発の声のように激しく庭を鞭打ち、あれほどまでにわが世の春を謳歌したさしものバラたちも、泣きに泣いたやもめのように、さもなければ、陵辱の落とし子であることをとうとう知ってしまった少年のように、今はすっかりしおたれている。

(引用終了)
<『さもなければ夕焼けがこんなに美しいはずはない』丸山健二著(求龍堂)58ページ>

平岡公威の次のような文章、

(引用開始)

 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸(しおりど)も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際(きわ)に咲いた撫子(なでしこ)がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼きそうな青緑の陶(すえ)の榻(とう)が、芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂の青空には、夏雲がまばゆい肩を聳(そび)やかしている。

(引用終了)
<『天人五衰 豊饒の海(四)』(新潮文庫)302ページ>

は、いずれも擬人の比喩が多い文章である。詳しくは『夜間飛行』のカテゴリ「言葉について」を参照いただきたいが、日本語の論理は容器の比喩が多く、英語の論理は擬人の比喩が多い。上の文章をみてバタ臭い感じがするのはそのせいだ。複眼主義ではこれを、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
<擬人の比喩が多い>
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
<容器の比喩が多い>
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

と関連付けている。

 『太陽と鉄』(講談社文庫)のなかで、平岡は自分の文体について次のように書いている。自分は「冬の日の武家屋敷の玄関の式台のような文体」を好むとした上で、

(引用開始)

 もちろんそれは日に日に時代の好尚から背いて行った。私の文体は対句(ついく)に富み、古風な堂々たる重みを備え、気品にも欠けていなかったが、どこまで行っても式典風な壮重な歩行を保ち、他人の寝室をもその同じ歩調で通り抜けた。私の文体はつねに軍人のように胸を張っていた。そして、背をかがめたり、身を斜めにしたり、膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振ったりしている他人の文体を軽蔑した。
 姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にあることを、私とて知らぬではない。しかしそれは他人に委ねておけばすむことだった。

(引用終了)
<同書 42−43ページ>

と書く。まさにA側の発想である。日本の場合A側の発想は長く漢文によって担われてきた。「四六駢儷体」などの男性性を重視した文体。彼はここで文体についても擬人の比喩を用いている。

 さて、精神科医の斎藤環氏は、『三島由紀夫』(「文藝」別冊・河出書房新社)に寄稿した「逆説の同心円」の中で、平岡の文体には「逆説」が多いとし、平岡の「あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば気持ちが悪いと仰言る。あなた方は御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、夜になればお互いに姿を変え、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を」(「サド侯爵夫人」)といった文章を幾つか引用したあと、

(引用開始)

 そう、三島の用いる「逆説」には、いかなる空間性もない。平面上に「塗り込められ並置させられた対立物は、互いに互いを仲良く注釈しあい、そこにいかなる弁証法も生じない。(中略)本質的な逆説が、揚棄された対立において現実的な空間性(審級としての「心理」)をもたらすとすれば、やはり三島の逆説には「空間」がない。むしろオリジナルとコピーの対立がそうであるように、そこにあるのは「同心円的」な関係だけなのだ。

(引用終了)
<同書 28−30ページ>

と書いておられる。

 作家丸谷才一(本名根村才一)は、鹿島茂・三浦雅士氏との共著『文学全集を立ちあげる』(文春新書)のなかで、鹿島氏の「この間、劇団四季の『鹿鳴館』を見たんですが、日下武史の景山伯爵のセリフが決まってて、“そうか、三島由紀夫は戯曲で観たほうがずっとセリフがちゃんと出てくるな”と思いました」という発言に対し、

(引用開始)

 僕もその芝居を見て、同じことを思った。悪くなかったね。でもね、三島由紀夫の作品はすべてそうなんだけれども、前半は大変いいんだよ。後半になると論理が乱れる。なぜ乱れるかというと、彼の書く文章はレトリックというものはあるけれども、ロジックの裏打ちがないんだよ。法廷で相手を論破することができるレトリックではなくて、単なる悪い意味でのレトリックなのね。(中略)だから、彼の書く作品は常に最後になると理屈が通らない。それが一番よくわかるのは、「金閣寺」とか、「近代能楽集」なんかですね。前半は面白いけれど、後半は論理が乱れてダメなんです。(中略)(芝居では)「鰯売恋曳網」がいい。(中略)あの人はユーモアがない人だったんだね。だから、やっぱりイギリスの小説の味がわかっていないわけだよね。

(引用終了)
<同書 294−295ページ(フリガナ省略)>

と話している。

 平岡がA側の発想でものを書いている(と思っていた)にも関わらず、斎藤環氏が「そこにいかなる弁証法も生じない」「空間がない」「あるのは同心円的関係だけ」といい、丸谷が「レトリックというものはあるけれども、ロジックの裏打ちがない」「ユーモアがない」というのはどうしたことだろうか。

 <平岡公威の冒険 3>において、平岡の作品や言動は、日本的な自然偏重の美意識と西洋的な都市偏重の美意識の両方に跨り、特に反重力美学(高揚感/野卑/華やかさ/魔的なもの)の表出が多いと述べ、さらに、それらが「ごった煮」のようにコントロールされずに表現されたと書いた。

 日本的な自然偏重の美意識は、
img013.jpg
 西洋的な都市偏重の美意識は、
img014.jpg
である。

<自然偏重の美意識・反重力美学>
A側(男性性):野卑
B側(女性性):華やかさ

<都市偏重の美意識・反重力美学>
A側(男性性):高揚感
B側(女性性):魔的なもの

平岡の作品や言動は、この四つの「ごった煮」だったというわけだ。

 弁証法や空間重視、レトリックやユーモアといったものは、都市偏重のA側「高揚感」に纏わる発想・美意識である。斎藤氏や丸谷才一が平岡の文章を否定するのは、平岡の「ごった煮」表現に対する拒否感で、稲垣足穂が『金閣寺』以降の平岡の作品を「荒唐無稽な仇花」と評したのと同じ地点に立っているといえよう。

 平岡は、その文体で、都市偏重のA側「高揚感」に到達しようとしたが、それは往々にしてB側「魔的なもの」に墜した。彼は擬人の比喩を多用し男性性を装ったが、理論的であるよりも情緒的(同心円的)な女性性をその美意識の核としていた。とくに1950年代後半以降「熱狂時代の先取り」を実践し始めてから、ロジックの破綻傾向がより目立つようになったのではないだろうか。

 彼がもっと郷愁的美学の方、
 
<自然偏重の美意識・郷愁的美学>
A側(男性性):寂び
B側(女性性):女々しさ

<都市偏重の美意識・郷愁的美学>
A側(男性性):軟弱さ
B側(女性性):エレガンス

に意義を見いだしていればまた違った展開もあったのだろうが、当人が「私の文体はつねに軍人のように胸を張っていた。そして、背をかがめたり、身を斜めにしたり、膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振ったりしている他人の文体を軽蔑した。姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にあることを、私とて知らぬではない。しかしそれは他人に委ねておけばすむことだった」と考えていたわけだから、それこそポルトガルに「隠居」でもしないかぎり、彼がこちら側の美学に意義を見いだすことは難しかっただろう。

 <平岡公威の冒険 3>で、

(引用開始)

私は平岡のそういったところがむしろ好きだ。言動はまるで愛すべきやんちゃ坊主のようだし、多くの作品には緊張感がある。「ごった煮」の中から自分の好きな具材を選べば、シェフの味付けは決して悪くないと思う。

(引用終了)

と書いたが、平岡の作品をジャンル別にみると、戯曲はその「ごった煮」加減が適した分野といえる。『サド公爵夫人』『黒蜥蜴』『アラビアン・ナイト』などなど。短編小説は短いから論理の破綻が少ない。『橋づくし』『海と夕焼け』『魔法瓶』『月澹荘綺譚』『仲間』『荒野より』など。評論では<平岡公威の冒険 12>で挙げた四作品『アポロの杯』『小説家の休暇』『旅の絵本』『裸体と衣装』。長編小説では<平岡公威の冒険 8>で論じた『豊饒の海』が、小説というより物語のようで(その破綻も含めて)やはり面白い。最近流行った『命売ります』といったエンターテインメント系も楽しめる。

 ちなみに、『文学全集を立ちあげる』の中で、鹿島茂・三浦雅士氏が「三島由紀夫集」の収録すべき作品として挙げたものは、

『仮面の告白』(小説)
『愛の渇き』(小説)
『美しい星』(小説)
『サド公爵夫人』(戯曲)
『わが友ヒットラー』(戯曲)
『鹿鳴館』(戯曲)
『鰯売恋曳網』(戯曲)

であった。『鰯売恋曳網』はめずらしく丸谷才一が褒めた作品。

 平岡の文体は、欠点もあるけれど、同心円的華やかさを持ち、日本語表現のひとつの極として、特に戯曲や短編、旅行記や物語小説において光芒を放っている。それを愉しめるかどうかは、華やかさを旨とする日本的反重力美学に対する嗜好をどれほど持っているか、さらには、平岡の人生冒険の切実さにどれだけ共感できるか、に拠るように思われる。
「百花深処」 <平岡公威の冒険 14>(2016年07月08日公開) |目次コメント(0)

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