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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <平岡公威の冒険 13>

 ここまで、平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の冒険を、

(1)「時間論の混乱」(「平岡公威の冒険」)
(2)「私生活上の行き詰まり」(<平岡公威の冒険 2>)
(3)「熱狂時代の先取り」(<平岡公威の冒険 4>)
(4)「戦後日本の父性の不在」(<平岡公威の冒険 5>)
(5)「三島由紀夫の解体」(<平岡公威の冒険 9>)

と追ってきたが、前回の<平岡公威の冒険 12>を参照しながらこの5つの相互関係を見ると、1950年代後半に始まった「熱帯と死の情緒の結びつき」が(3)「熱狂時代の先取り」を生み、それが肉体と精神の二元論による(1)「時間論の混乱」と、(2)「私生活上の行き詰まり」を齎し、時代背景により(4)「戦後日本の父性の不在」が強く意識されるようになると、最後の(5)「三島由紀夫の解体」に至る道が開かれた、といえるように思う。

「熱狂時代の先取り」(1950年代後半から)

「私生活上の行き詰まり」(1960年代を通して少しずつ)
「時間論の混乱」(1968年『太陽と鉄』執筆の頃)

「戦後日本の父性の不在」を強く意識(特に1960年代後半から)

「戦後日本の父性の不在」に対して覚醒を促す行動(1970年自決)
「三島由紀夫の解体」(1970年自決)

という流れだ。さて、1960年代以降、平岡はどこかでこの流れを止めることができなかっただろうか。今回はそのことを考えてみたい。

 <平岡公威の冒険 2>で紹介した平岡の親友だった女性・湯浅あつ子に、『ロイと鏡子』(中央公論社、1984年)という著書がある。ロイとはご主人だったロイ・ジェームズ、鏡子とは平岡の長編小説『鏡子の家』の主人公の名前だ。湯浅夫人は鏡子のモデル(勿論フィクションだからそのままではないが)といわれている。 

 この本の「三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」と題された章に、次のような箇所がある。

(引用開始)

 今考えると、三島由紀夫からうけたあの数々のやさしさや恩に対して、申しわけなくて、自ら一番にサインして我が家に届けに来てくれた、二冊にわかれた思い出の『鏡子の家』を、彼からの私への手紙やもろもろのプレゼント(外国取材のお土産)とともに、くやみながら、大切に保存してある。この作品を最後に、ポルトガル行きを考え、夢みていた三島由紀夫は、驕慢な私をやさしく大きな心で許して、外国行きをあきらめた。

(引用終了)
<同書 121ページ>

「驕慢な私」とは、湯浅夫人が『鏡子の家』に描かれた自らのサロンの扱い方に不満で本の宣伝に一役買うことを断ったことを指している。

 「この作品を最後に、ポルトガル行きを考え」という部分、当時平岡は、この『鏡子の家』を成功させ、一作で何年か食いつなぎ次作につなげるという西欧型の文士生活を夢見ていた。その文士生活の場としてポルトガルを考えていたということなのだろう。しかし、『鏡子の家』は文壇的失敗を齎す。当時平岡は川端康成宛に、

(引用開始)

 足かけ二年がかりの「鏡子の家」が大失敗といふ世評に決まりましたので、いい加減イヤになりました。努力で仕事の値打ちは決まるものではないが、努力が大きいと、それだけ失望も大きいので、あんまり大努力はせぬ方がよいかとも考へられます。本当は一年くらゐ、遊んでゐるとよいのですが、日本にゐると、さうも参りません。

(引用終了)
<『三島由紀夫・川端康成往復書簡』(新潮社)133−134ページ>

と書き送っている(1959年・昭和34年12月18日付)。なぜ「日本にゐると、さうも参りません」なのか。それは平岡が自ら、「文壇の寵児」として脚光を浴び続ける道(本格的な平岡の三島化)を選んだからに他ならない。

 この本格的な平岡の三島化の道を逸(そ)れ、三島の平岡化を図る(「一年くらゐ、遊んでゐる」)には、一度あきらめたポルトガル行きを復活させるのがベストだろう。そのタイミングとしてはいつが良かったか。いくつか条件を書き出してみよう。

a ポルトガル単独行が無理なくできる時
b 「私生活の行き詰まり」が深刻になる前
c 「戦後日本の父性の不在」と行動が直結する前

 これらの条件を鑑みるに、1965年3月の英国旅行をきっかけとするのが良かったのではないだろうか。<平岡公威の冒険 10>から、旅程を抜き出してみる。

(引用開始)

[5]
1965年(昭和40年)3月出国
1965年(昭和40年)約一ヶ月滞在
(英国文化振興会の招きで英国に滞在)
『ロンドン通信』1965年(昭和40年)3月毎日新聞寄稿
『英国紀行』1965年(昭和40年)4月毎日新聞寄稿

(引用終了)

 英国に一ヶ月滞在していたわけだから、その期間中、週末にでもロンドンから飛行機で飛べばすぐにポルトガル(リスボン)に行ける。そこで週末を過ごしてまた英国へ戻る。ポルトガルでは、一年ぐらい遊んで暮らせる場所を探しておく。その後帰国してから計画を練り、再度ポルトガルへ向かう。そして一年くらい遊んで暮らす。同伴者がいれば尚良い(それが瑤子夫人なのかそうでないのかは分からない)。

 平岡はポルトガルについて次のように書いている。

(引用開始)

 ポルトガルの首都リスボンにはたった二日しかゐなかったが、その記憶は今も清潔で鮮明で、少しも手垢(てあか)に汚れない。何といふ美しい町だらう! あの冬のきらめくばかりの日光と、美しい公園と、家々を飾るタイル細工と、モザイクの歩道とは、ありありと目に残っている。(後略)<「ポルトガルの思ひ出」559ページ>

 リスボンほど美しい町を見たことがないといふと誇張になる。一九五二年に訪れたリオ・デ・ジャネイロも、地上最美の都会と思はれた。今度の旅ではリスボン。いづれそのときの主観的な条件に支配された印象だらうが、どちらもポルトガル系の町であることが面白い。日本人の血の中には、安土桃山時代からのポルトガルへの南蛮趣味的あこがれが、深くひそんでゐるのであらうか?
 隠居するならリスボンに限ると思った。モザイクの美しい道路。キラキラと宝石のやうにかがやく冬の太陽。美しい亜熱帯性の鬱蒼たる街路樹。ポルトガル独特のタイル細工をはめこんだ家々の複雑なファザード。それが斜めに日を受けると、何ともいへない繊細な立体感があふれてきて、しかも雅趣に充ちてゐる。(中略)
 リスボンは又、人口の少ない街で、どこもかしこも森閑として、下町へ行かなければ人の群れには会はない。曲がりくねった古い街路の繊細な鉄細工のバルコニイに、あふれる花の木の植木鉢、そこにひるがへる洗濯物のまばゆい白さ、漏れてくる明るい民謡など、ラテン系の町の美しい特色を、落ちこぼれなく備へてゐるのがこの町だ。<南蛮趣味のふるさと――ポルトガルの首都リスボン>

(引用終了)
<『決定版三島由紀夫全集(31)』三島由紀夫著(新潮社)>

いかがだろう。ポルトガルで一年ぐらい「隠居」すれば、彼は「熱狂時代の先取り」を見直し、ニヒリズムから離れることができたのではないだろうか。リスボンに行けば「三島の平岡化」路線に戻れたのではないか。映画に例えれば、<平岡公威の冒険 II>の始まりである。勿論、詮のない話だが、ポルトガルの海辺でのんびりビールでも飲んでいる平岡を想像すると、少しばかり気が晴れるではないか。
「百花深処」 <平岡公威の冒険 13>(2016年06月30日公開) |目次コメント(0)

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