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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <平岡公威の冒険 10>

 <平岡公威の冒険 9>で、平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の海外旅行に触れた。年譜を見ると、平岡はその生涯に8回海外へ出かけている。そのうち3回は夫人同伴。残りの5回は一人旅だ。8回の旅と、その時の主な紀行文を以下に纏めた。

[1]
1951年(昭和26年)12月25日出国
1952年(昭和27年)5月帰国
(朝日新聞特別通信員として北米、南米、ヨーロッパなど)
『アポロの杯』1952年(昭和27年)10月刊行

[2]
1957年(昭和32年)7月9日出国
1958年(昭和33年)1月上旬帰国
(アメリカクノップ社の招きで渡米、その後西インド諸島、メキシコ、ヨーロッパなど)
『旅の絵本』1958年(昭和33年)5月刊行
『外遊日記』1958年(昭和33年)4−11月新潮寄稿

[3]
1960年(昭和35年)11月1日出国(夫人同伴)
1961年(昭和36年)1月20日帰国
(北米、ヨーロッパ、アラブ連合など)
『大統領選挙』1960年(昭和35年)11月毎日新聞寄稿
『口角の泡』1961年(昭和36年)1月声寄稿
『ピラミッドと麻薬』1961年(昭和36年)1月毎日新聞寄稿
『旅の夜』1961年(昭和36年)1月東京新聞寄稿
『美に逆らうもの』1961年(昭和36年)4月新潮寄稿
『南蛮趣味のふるさと』1961年(昭和36年)6月婦人生活寄稿
『冬のベニス』1961年(昭和36年)7月婦人公論寄稿

[4]
1961年(昭和36年)9月15日出国
1961年(昭和36年)9月29日帰国
(アメリカの「ホリデイ」誌に招かれてサンフランシスコに滞在)
『アメリカ人の日本神話』1961年(昭和36年)9月ホリデイ誌寄稿

[5]
1965年(昭和40年)3月出国
1965年(昭和40年)約一ヶ月滞在
(英国文化振興会の招きで英国に滞在)
『ロンドン通信』1965年(昭和40年)3月毎日新聞寄稿
『英国紀行』1965年(昭和40年)4月毎日新聞寄稿

[6]
1965年(昭和40年)9月5日出国(夫人同伴)
1965年(昭和40年)11月帰国
(アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア各地)
『手で触れるニューヨーク』1966年(昭和41年)1月毎日新聞寄稿

[7]
1967年(昭和42年)9月26日出国(夫人同伴)
1967年(昭和42年)翌月下旬帰国
(インド政府の招きで「暁の寺」取材旅行、帰途ラオス、タイに立寄る)
『インド通信』1967年(昭和42年)10月朝日新聞寄稿

[8]
1969年(昭和44年)12月8日出国
1969年(昭和44年)12月12日帰国
(韓国へ旅行)

 海外旅行、特に一人での旅行は平岡に限りない自由を与えたと思う。誰からも三島由紀夫だと気付かれない旅行中、平岡は「平岡公威」として自由に過ごすことが出来た筈だ。特に[1]と[2]は約半年間に亘る長旅だから、平岡の感性に多大な影響を与えたものと思われる。

 紀行文で纏まったものといえば、[1]の『アポロの杯』と[2]の『旅の絵本』だろう。私は若い頃、この二つと、日記風評論『小説家の休暇』『裸体と衣装』の二つを繰り返し読んで影響を受けた。

 ところで、[1]と[2]の旅は同質ではなかった。その間に、<平岡公威の冒険 2>で述べた、恋人との蜜月時期が挟まっている。その前後の主な活動を追ってみよう。

1949年(昭和24年)7月『仮面の告白』刊行
1951年(昭和26年)[1]
1952年(昭和27年)10月『アポロの杯』刊行
1954年(昭和29年)6月『潮騒』刊行

1954年(昭和29年)7月、恋人との出会い
1955年(昭和30年)5月『沈める滝』刊行
1955年(昭和30年)9月ボディビル練習開始
1955年(昭和30年)11月『小説家の休暇』刊行
1956年(昭和31年)10月『金閣寺』刊行
1956年(昭和31年)12月『永すぎた春』刊行
1957年(昭和32年)3月『鹿鳴館』刊行
1957年(昭和32年)1月『橋づくし』刊行
1957年(昭和32年)春から夏、恋人と別れる

1957年(昭和32年)7月[2]
1958年(昭和33年)5月『旅の絵本』刊行
1958年(昭和33年)6月瑤子夫人と結婚
1959年(昭和34年)9月『鏡子の家』刊行
1959年(昭和34年)11月『裸体と衣装』刊行
1960年(昭和35年)4月文学座『サロメ』の演出
1960年(昭和35年)11月[3]
1961年(昭和36年)1月『憂国』雑誌掲載

 これをみて分かるように、[1]の旅行の後、平岡は『仮面の告白』路線から、生を謳歌する明るい世界へと足を踏み入れたことがわかる。特にブラジルや希臘、羅馬での体験がそれを促した。『アポロの杯』が書かれ、『潮騒』が書かれる。

 そしてその上昇機運の時期、1954年に恋人と出会う。彼女との蜜月3年間の創作意欲は爆発的だ。『沈める滝』を書く、ボディビルを始める(ボクシングも始める)、日記的評論『小説家の休暇』を刊行する、『金閣寺』を書くなどなど。しかし彼は、1957年に恋人と別れてしまう。

 そのあとすぐ、[2]の旅行へ出る。翌年『旅の絵本』を書く。そして6月に結婚。その年の4月から日記的評論『裸体と衣装』を雑誌に連載しつつ『鏡子の家』を書く。<平岡公威の冒険 7>で触れたように、『鏡子の家』は文壇的失敗を齎す。翌年、文学座で『サロメ』の演出を行なう。切腹を描いた『憂国』を小説中央公論に掲載するのは、翌1961年(昭和36年)の1月、自らは日本不在中[3]の期間中のことであった。

 もし平岡が、1960年(昭和35年)、偶然(アメリカンファーマシーで)邂逅した恋人とどうにかなっていたら、その後の彼の人生は別の道を辿っただろう。もしかすると、切腹をテーマとする『憂国』路線に踏み込んでいなかったかもしれない。11月の[3]は、彼女との逃避行となっていたかもしれない。現に平岡は1962年(昭和37年)1月雑誌「文藝春秋」に、彼女をモデルにした気配濃厚な『魔法瓶』という短編を載せる。ちょうど[4]の旅から帰った頃だ。しかし、別の道は今さら考えても詮のないことではある。先に述べた四つの作品を時系列に並べてみると、

1952年(昭和27年)『アポロの杯』
1954年(昭和29年)恋人との出会い『小説家の休暇』
1957年(昭和32年)恋人との別れ
1958年(昭和33年)『旅の絵本』
1958年(昭和33年)結婚
1959年(昭和34年)『裸体と衣装』

となる。代わりと言ってはなんだが、上昇機運時の『アポロの杯』と『小説家の休暇』、恋人と別れた後の『旅の絵本』と『裸体と衣装』、形式のよく似た二つのペア作品について、項を改めてその違いを見てみるとしよう。
「百花深処」 <平岡公威の冒険 10>(2016年05月04日公開) |目次コメント(0)

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