<平岡公威の冒険 6>で、平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)が死後の出版を意図して写真集『男の死』を制作していたことを記したが、平岡は自らの死後にもう一つ別の作品を用意していた。それは、イギリス19世紀末を代表する作家オスカー・ワイルドの悲劇『サロメ』(1893)の上演である。『サロメ』は平岡が少年期にはじめて手にした文学作品だった。1971年2月上演予定の浪漫劇場第七回公演『サロメ』の演出担当として、平岡は演出助手の和久田誠男氏にプランを伝えている。その内容を『三島由紀夫 悪の華へ』鈴木ふさ子著(アーツアンドクラフツ)から引用しよう。
(引用開始)
三島は「肉欲」という強固な関係で結びついた、最初の恋人とも言える『サロメ』を終生忘れることはなく、演出はこの初恋相手に対して捧げられた最高の敬意(オマージュ)であった。三島は当時まだ三十歳に満たない和久田を演出助手に指名し、特に四つの演出プランについて絶対に守るように彼に念を押した。ひとつはサロメの踊りは東洋的なものにすることであった。三島はサロメがヘデロ王の前で舞う「7つのヴェールの踊り」に関してだけはビアズリーの絵ではなく、ワイルドがインスピレーションを受けたフランス象徴派の画家ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826-1898)の絵に近いものを望んでいたからである。ふたつめは、背景の前面にビアズリーの絵を拡大して使い、装置全体を白と黒で統一することであった。三島は和久田との最後の打ち合わせの際、舞台のセットについて図解しながら綿密な指示を与えたが、ビアズリーの絵については、大判の画集の何番を使うという指示を英語で書き込み、さらに自らの手でビアズリーの絵を模したイメージ図を描くという念の入れようであった。色に関しては、色のあるものは卓上の林檎にいたるまで黒という指示であった。ただし、空などの背景を照明効果で表現するために舞台奥に設けられた壁、ホリゾントだけは青となった。
残りのふたつは三島が自分の死を強く意識してあたっていたことを印象づけるものである。まず、舞台の両脇に孔雀の香炉を置き、香を絶やさず焚き続けてほしいという指定。これはワイルドの原作にも十年前の上演時にもなく、今回の台本にも書かれていない指示である。三島は説明図において舞台の両脇にきちんと三島自身の手で孔雀の絵を描き、指示を書き込んでいる。そして最後の指示は、ヨハネの首から大量の血をしたたらせてほしいというものであった。ホリゾントの青以外は白と黒で統一するという厳密に限定された色彩の中で唯一血だけがそれ以外の色――赤――を使用することが許されていたのである。
三島が和久田に託した四つの演出プランの意図はいまさら言うまでもないだろう。社会を揺るがした自決から三ヶ月も経たないうちに紀伊国屋ホールで上演された森秋子主演の『サロメ』は話題をさらった。「死後も演出する三島」という見出しの『毎日新聞』の記事(昭和四十六年二月十六日付)の中で和久田が語った通り、『サロメ』は明らかに三島本人によって「綿密に計算された“劇場での葬儀”」であった。
(引用終了)
<同書 253−255ページ>
ギュスターヴ・モローの絵画やビアズリーの絵、オスカー・ワイルドの戯曲(や小説)は、ブログ『夜間飛行』「
象徴主義絵画」の項で書いたように、ラファエル前派と同じ、19世紀後半の象徴主義運動の一つとされる。ラファエル前派の革新性は、アーツ&クラフツ運動に引き継がれ、さらに20世紀のイギリス庭園にまで受け継がれた。ワイルドに感化を受けた平岡は、同じ象徴主義でも、ラファエル前派的なケルト神話や自然崇拝には興味を示さなかった。アーツ&クラフツ運動や20世紀のイギリス庭園にも興味を示した気配はない。彼の興味は、ワイルドとその周辺の世紀末デカダンス芸術に限定された。
『三島由紀夫 悪の華へ』にも引用されているように、平岡自身は、
(引用開始)
私はあらゆる作家と作品に、肉欲以外のもので結びつくことを肯(がへ)んじない。この肉欲は端的に対象を求める心情である場合もあり、同類のみが知る慰謝(ゐしゃ)である場合もある。さらにまた、深い憎悪に似たそれである場合もある。
愕(おどろ)くべきことには、ワイルドはそのすべてであり、そのおのおのであった。私がはじめて手にした文学作品は「サロメ」であった。これは私がはじめて自分の目で選んで自分の所有物にした本である。(「オスカア・ワイルド論」)
(引用終了)
<同書 253ページ>
と書いている。同じ象徴主義でもワイルド(とビアズリー、モロー)以外にはそのような結びつきを感じなかったというわけだ。
しかし、「私はあらゆる作家と作品に、肉欲以外のもので結びつくことを肯(がへ)んじない」というstatementは考えてみれば異常である。読書は脳の働きだから、そもそも理性的な行為である。人は作家と作品にまず理性によって結びつく。そのあと肉欲的な憧れを懐くというのなら分かるけれど、あらゆる作家と作品に対して、肉欲以外のもので結びつくことを否定してしまったら、理性的な判断に基づく批判精神の居場所がなくなってしまう。ここは素直に「私はワイルドに肉欲的ともいえる結びつきを感じる」と書けばよかったはずである。そうすれば、ワイルド(とビアズリー、モロー)以外の象徴主義や社会運動、庭造りなどに自分の興味が向かない理由を分析する契機も生ずる。
おそらく、平岡は少年期の成長過程で『サロメ』を読んで興奮し、青年期にはいっても、作者ワイルドに対して一種独特な嗜好を覚え続けたということなのだろう。だから他への興味は背景に退いた。しかし普通、時間がたてば(壮年期に入れば)、ワイルドの生きた時代やその後の展開に(批判的にせよ)興味が向かうのではないか。平岡が、壮年期に至るまで少年期の興味を持続させ、頑なに他への興味の横展開を拒んだのは、そして自分の葬儀までをもそれによって埋め尽くそうとしたのは何故なのだろうか。
<平岡公威の冒険 8>で引用した『三島由紀夫 幻の遺作を読む』(井上隆史著)に、平岡の職業作家デビュー作、『仮面の告白』の起筆予定日が1948年(昭和23年)の11月25日だったことが記してある。「『仮面の告白』ノート」にある、「この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとって裏返しの自殺だ。飛込自殺を映画にとってフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上がつて生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である。」という平岡の文章を引用した後、井上は次のように書く。
(引用開始)
ここで「私が今までそこに住んでゐた死の領域」とは、空襲下の三島を襲った存在の危機が(第六章参照)、戦後になって解消するどころか、むしろ暴力的な同性愛衝動の高まりもあって一層深刻化した状態を指す。三島は、このような危機を超克する作品として、『仮面の告白』を位置付けているのである。
そうだとすれば、三島が死の日付として、また『天人五衰』の擱筆日として十一月二十五日を選んだのは、フィルムを逆回転する前の状態、つまり自殺者が谷底で死んでいる状態に戻るということを意味する象徴的行為ではないだろうか。
すなわち、『天人五衰』において『春の雪』にまで遡ってすべてを虚無で多い尽くそうとしたのと同様に、三島はその文学の最後に、自分の作家的アイデンティティを確立させた『仮面の告白』まで遡り、その後の創作活動のすべてを解体し、虚無へと導いたのである。
(引用終了)
<同書 250ページ(フリガナ省略)>
「オスカア・ワイルド論」が書かれたのは、1950年(昭和25年)だ。『仮面の告白』が出版されたのが1949年(昭和24年)だから、そのすぐ後のことである。『仮面の告白』は、三島由紀夫というキャラクターを性倒錯者として位置づけることによって、社会と主人公のエゴとの齟齬を必然化・正当化した作品である。しかも、主人公が仮面を被っているという設定によって、その必然や正当化もフィクションであると作者が示唆する、という手の込んだ筋立てになっている。職業作家としての第一作としては良い出来だと思う。大向こうを呻らせるのには十分だっただろう。
「オスカア・ワイルド論」は、この三島由紀夫キャラクター生成初期に書かれたものだ。上の引用にある「同類のみが知る慰謝(ゐしゃ)」という言葉に注意してほしい。平岡はさりげなく性倒錯者であったワイルドと三島由紀夫とを重ね合わせる。<平岡公威の冒険 2>で、『仮面の告白』以来、平岡は「三島由紀夫」というペンネームを対社会的「鎧」としてあまりに強固なものにしてしまったため、ついにそれを脱ぐことが出来なくなってしまったと書いたが、このワイルドに関する小論も「鎧」を補強する役割を果たしている。
平岡本人が性倒錯者だったかどうかはプライベートなmatterである。変遷もあり得る。それは「三島由紀夫」という仮面・鎧とはまったく別の話だ。しかし平岡は、『仮面の告白』以降、実社会でもずっと同じキャラクターを演じ続ける(恋人や親しい人との短い時間を除いて)。肉体を改造し、白亜の洋館に住み、俳優のように映画や雑誌に登場する。実生活のフィクション化といってもいいかもしれない。『仮面の告白』刊行から3年後、1952年(昭和27年)10月の刊行された『アポロの杯』(新潮文庫)で平岡は次のように書く。
(引用開始)
今日も恍惚としながら私の思うことは、希臘と羅馬とのこの二週間、これほど絶え間のない恍惚の連続感が、一生のうちに二度と訪れるであろうかということである。私は人並みに官能の喜びも知り、仕事を終えたあとの無上の安息の喜びも知っているが、それらがかつて二日とつづいたことはなかった。希臘と羅馬では半ば予想されたこうした幸福感が、他人の親切で擾されることがないように、注意深く交際の機会を避け、すでに二週間、私は三度の食事を一人で食卓に向かっているが、こういうことも家族に恵まれた今までの生活では、初めての経験である。しかしこの二週間、一瞬であれ、私は孤独を感じたおぼえがない。たしかプルウストの気の利いた小品の一つを思い出されたい。それは或る社交好きな青年が、その夜も客を招いてある食卓を前にして、客の遅い来訪を待ちわびているところへ、見知らぬ招かれざる客が現れて食卓に就こうとする。青年が咎めると「私は一度もあなたの食事に招かれたことがない。私はしかし、いつかあなたの食事に招かれる権利があるのだ」と厳かに答え、さらにその名をたずねる青年の問いにこたえて、招かれざる客は苦々しくこう言うのである。「私を御存知ない?そんな筈はない。私の名は『貴下自身』というのだ」
(引用終了)
<同書 140ページ(フリガナ省略)>
旅行記に唐突に挿入されたこのくだりは、いかに平岡(プルウストのいう『貴下自身』)が普段「三島由紀夫」という仮面に拘束されているかを示している。
最後に平岡はそれを解体した、と井上氏は書く。11月25日の意味を考えるとおそらくそうなのだろう。そして、「三島由紀夫」の葬儀を自らの手で(『サロメ』の演出を通して)準備した。
平岡は真面目な人だったのだろう。だから彼は生涯「三島由紀夫」キャラクターを演じ続けた。平岡が壮年期に至るまで少年期の興味を持続させ、頑なに他への興味の横展開を拒んだのは、そして自分の葬儀までをもそれによって埋め尽くしたのは、「三島由紀夫」の為だったのだ。彼は最後、自らの美学に殉じたのではなく、律儀にも、自ら作り上げた「三島由紀夫」というキャラクターに殉じたのである。と同時に、彼は「三島由紀夫」というフィクションを解体し、その葬儀を取り仕切った。香を絶やさず焚き続けよというのは、平岡自身に対してではなく、彼の「三島由紀夫」に対する追悼の意なのではないだろうか。
参考:
「
平岡公威の冒険」(『夜間飛行』)
<
平岡公威の冒険 2>(『百花深処』)
<
平岡公威の冒険 3>(『百花深処』)
<
平岡公威の冒険 4>(『百花深処』)
<
平岡公威の冒険 5>(『百花深処』)
<
平岡公威の冒険 6>(『百花深処』)
<
平岡公威の冒険 7>(『百花深処』)
<
平岡公威の冒険 8>(『百花深処』)